月見草アニメ!

ブログ名は「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」という野村克也氏の名言からつけました。月見草のように、目立たないながらも良さがあるアニメやゲームについて、語ることを目指します。

どうしようもない現実を生きる想いに寄り添う~ブルリフ燦で見えた「ブルリフらしさ」~

PC・スマートフォンゲーム「BLUE REFLECTION SUN/燦」(以下「ブルリフS」と呼称)の情報が解禁された先月、シリーズファンの間でもブルリフSについて議論が紛糾する中、私は以下の記事を投稿しました。

 

tsukimisouanime.hatenablog.com

この記事で私は、「ブルリフの本質とは何かを明確にしてから、ブルリフSについて議論すべき」と主張しました。

その後、私はブルリフSのCBTをプレイする機会に恵まれ、この記事を投稿したときは明確にすることができなかった私の考えも、だいぶはっきりとした形ができてきたように感じています。賛否の分かれるブルリフSですが、私にはとてもブルリフらしい作品に思えました。そんなブルリフSに触れたことで、ブルリフの本質というと大げさですが、シリーズを通したブルリフらしさとは何なのかということが、多少なりとも見えてきたのです。

そこで本稿では、ブルリフらしさとは何かということについて、現時点での私の考えを述べておきたいと思います。

ブルリフSのCBTをプレイして私が感じたブルリフらしさとは、「どうしようもない現実を生きる想いに寄り添う」ことです。この視点から、過去のシリーズを順に振り返っていきます。

 

「想いがあれば変えられる」ブルリフR

まずはTVアニメ「BLUE REFLECTION RAY/澪」(以下、ブルリフRと呼称)についてです。シリーズの順番としては2番目の作品ですが、この作品から検討するのがわかりやすいです。

ブルリフRにおいては、少女たちの苦しみを生み出す社会の姿が繰り返し描かれます。

6話では、山田仁菜の過酷な生い立ちの原因となった母子家庭の貧困に対して、「民間による自助努力が求められ」るという音声をテレビから流しています。22話では、水崎紫乃の苦しみの原因になっている聖イネス教について、社会が支持する様子が描かれます。

このような社会に対して、平原美弦は17話で、以下のように苦悩します。

リフレクターって、本当に誰かを守れるのかな。

私たちの力ではどうにもできないことが、この世にはあふれている。大人たちが苦しむ少女たちを生み出し、見て見ぬふりをしている。結局、私たちのやってることは一時的なものにすぎないんじゃ……

いくら特別な力があっても、リフレクターに直接世界を変えることはできないということを象徴したセリフです。このような発想から、「間違った世界を変える」という発想で動いたのが、ルージュ陣営の紫乃であり、美弦であるわけです。

ルージュリフレクターとなった美弦は11話で言っています。

リフレクターは、誰も守れない。

リフレクターは暴走した想い、フラグメントを鎮めることができる。だけどそれは一時的なものにすぎない。暴走した原因を排除しない限り、少女たちの苦しみは繰り返されていく。そんな子たちを私は何度も見てきた。理不尽な目に遭い、苦しむ少女を大人たちは見て見ぬふりをした。けれどそれは、何もできずにいた私も同じ。リフレクターは、誰も守ることができない。

このような美弦の苦悩に対して、この作品は、苦しむ少女たちへの連帯を描く一方で、おそらく意図的に「社会」や「大人たち」との対峙を描いていません。24話通して、作中に男性が「コンビニ男」しか出てこないのが象徴的であると言えます。

そして、美弦が抱えていた悩みに対しては、最終話である24話の平原陽桜莉と羽成瑠夏のセリフがアンサーになっています。紫乃の手を握って、陽桜莉はこう言いました。私の大好きなシーンです。

紫乃ちゃんが怖い時はずっとそばにいる。何度だってこの手をつかむ。誰かに引き離されそうになっても、絶対に離さない

陽桜莉の言葉に、瑠夏も続きます。

この世界だって、あなた(紫乃)の、私たちの想いがあれば変えられる

最終話において、紫乃は想いを管理すること、そして世界を変えることをやめました。結局、苦しむ少女たちを生み出す世界は変わっていません。紫乃にとっては双子の姉である加乃を失った現実は変わりません。それでも、最終話で紫乃は確かに救われたのです。

いくら特別な力があったって、リフレクターには直接世界を変えることはできなくて、できるのは想いを守ることだけ。でもそれで大丈夫なんだ、という物語の作りが、私は好きなのです。

この作品を見て、現実につらいことや苦しいことがあって、それらを直接変えることはできなくても、あなたの想いがあれば大丈夫なんだよ、と背中を押してもらったような気持ちになりました。

理不尽な世界を変えていくという物語もひとつの形ではあるでしょう。ですが、現実がそう簡単に変わらない以上、「不条理な世界が変わる」という物語よりも、「世界が不条理でも、自分の気持ち次第で大丈夫なんだ」という物語の方が、現実の誰かを救うのかもしれません。

ブルリフRは、不条理な現実を生きる誰かの想いに寄り添う傑作でした。

 

初代ブルリフで日菜子が得たもの

さて、以上のような視点で「BLUE REFLECTION 幻に舞う少女の剣」(以下初代ブルリフと呼称)を見ると、白井日菜子が最後に行った選択も、現実を変えることができていません。

初代ブルリフのクライマックスで、親友であるユズとライムが消えてしまうことを受け入れて、世界を守るために戦うという選択を日菜子は迫られます。仲間たちは日菜子の想いに寄り添い、葛藤の末、日菜子は戦うことを選びました。

日菜子の選択によって世界が滅亡を免れたという意味では、日菜子の選択は現実を変えたと言えます。しかし、日菜子にとって、リフレクターになったときはまず脚、なった後はユズ・ライムという存在の方が世界よりも大事で(誇張ではなく、最後の決断をした時の動機が世界を守ることそのものではなく、ユズとライムの想いを大切にすることだったのを考えれば明らかです)、リフレクターの力をもってしても、大事なそれらを直接変えることはできませんでした。

選択の末に残ったのは、日菜子にとってはバレエも、ユズとライムも失った悲しい現実。では日菜子は不幸だったのかというと、そんなことはないと思います。ユズとライムの想いを守ることができ、何より「ユズとライムのことを絶対に忘れない」という願いは叶ったからです。

日菜子の選択の結果、日菜子・ユズ・ライムの3人の想いは守られました。現実がどれほど理不尽で、それらを直接変えることはできなくても、人の想いだけは守ることができたのです。初代ブルリフのエンドロールで、笑顔で人魚姫を演じる日菜子を見て、想いがあれば、きっとこの先何があっても日菜子は大丈夫だと思いました。

余談ですが、日菜子が演じる役が人魚姫というチョイスが秀逸だと思います。「人魚姫」においても、人魚姫は声を失い、王子と結ばれることもありません。そして、最後は泡となって消えてしまいます。しかし、そのような悲しい物語でありながら、最後まで読めば人魚姫にも救いがあり、悲劇ではないことがわかります。

幸福とは、悲しいことや苦しいことが存在しない状態を言うのではなく、悲しいことや苦しいことがあっても大丈夫な状態を言うのではないか。初代ブルリフの物語に触れて、私はそんなふうに思いました。初代ブルリフも、まぎれもなくどうしようもない現実を生きる想いに寄り添った作品でした。

 

ブルリフTが描く、自己というどうしようもない現実

さて、ここまでブルリフRと初代ブルリフについて、「不条理な現実を変えることはできなくても、その現実を生きる想いに寄り添う」ことが描かれていると指摘してきました。一方で、「ブルリフTは違うではないか」という指摘もあるかもしれません。「BLUE REFLECTION TIE/帝」(以下「ブルリフT」と呼称)は、最終的には滅んでしまった世界を再構築する、つまり現実をどうにかしてしまう物語だからです。しかし、ブルリフTにおいても、描かれていることは過去の二作と変わらないと私は考えます。

主人公の星崎愛央は、平凡な自分に悩み、冒頭で「何者かになりたい」と願います。しかし、結局平凡な自己は変えることができませんでした。ブルリフTにおいては、この自己こそが、これまでのシリーズで描かれてきたどうしようもない現実にほかなりません。

こころも、私も、きっと他のみんなも、理想通りの自分にはなれなくて

でもだからこそ、周りを頼って、お互いの足りないところを埋め合っていくしかない……

愛央がみんなのリーダーとして失態を犯して落ち込んでいるときのイベントで、話す相手に靭こころを選択すると、上記のような会話を見ることができます。

愛央はこうも言っています。

弱音を吐いちゃいけない。だれにも頼らず、一番前を歩かないといけない……

リーダーって、そういう存在だと思ってた

でも、違ったんだ

そういうふうに突き進める人もいるかもしれないけど……私は、そうじゃない

私はやっぱり、特別な人間にはなれなかった。けど……相談してみて分かった

――私はこのチームが好きだ。この世界で出会ったみんなのことが好きだ

だから……みんなとのつながりを失いたくない。私は、私にできることをしたい……!!

愛央がどうしようもなく平凡な自己を受け入れると同時に、自らの想いを自覚した瞬間でした。

愛央だけではありません。誰かに手を差し伸べたいと願いながらも、手を差し伸べる強さを持っていないことに悩むこころ、自分以外の人を信じられなかった宮内伶那、不治の病である灰病を患っていた金城勇希……。ブルリフTの登場人物はみな、どこかどうしようもない自分に対する悩みを抱えた人物ばかりです。そして、彼女たちがそんな自分を受け入れ、お互いに助け合っていく姿は美しいものでした。

ブルリフTもまた、非常にブルリフらしい作品であったと言えます。

 

ブルリフSのCBTで見えたブルリフらしさ

さて、ブルリフSのCBTをプレイしてみると、このゲームがこの上なくブルリフの性質を持った作品であることがわかります。

CBTをプレイできなかった方も多いため、ネタバレになるようなことは書けませんが、病や異形の存在である「異灰(テスタ)」を生み出す灰の降るどうしようもない現実を生きる登場人物たちの想いに、私は引き込まれました。

優しすぎるが上に、他人の痛みを感じ、そのことに耐えられなくなってしまった人物。そして、その人物の想いに寄り添う別の人物。あるいは、辛い現実に後ろを向いてしまったある人物の想いに別の人物が寄り添い、後ろを向いていた人物が再び前を向く姿……。

冒頭で引用した記事では、私はブルリフSについて「期待4割、不安6割」と書きましたが、CBTをやった今では「期待9割、不安1割」です(ちょろい)。「ブルリフの本質は何か」というこの記事の問いに、ブルリフSが私にとっては満点の解答を出してきたからです。

議論の分かれるブルリフSですが、少なくともこれまでのシリーズの作品が持っていたブルリフらしさを存分に備えていることは断言できます。期待して正式リリースを待ちたいと思います。

 

ここまでお読みくださりありがとうございました。

 

ブルリフファンよ、ブルリフの本質が何なのかを考える時が来たわよ~

BLUE REFLECTION(以下ブルリフと呼称)シリーズの最新作となるスマートフォン/PCゲーム、「BLUE REFLECTION SUN/燦」(以下ブルリフSと呼称)が今冬リリースされます。シリーズ初の男性主人公を登場させるなど、ブルリフSの情報が明らかになりつつあります(2022年11月11日現在)が、現状ではこれらの情報について、ブルリフシリーズファンの間でも賛否両論があり、議論が紛糾しているように見えます。

BLUE REFLECTION SUN/燦 (bluereflection-sun.com)

このような状況で、本稿では私の考えをまとめておきます。私の気持ちをひとことで言えば、期待4割、不安6割といったところです。感情的な次元では不安な気持ちですが、一方で、理性的な次元では期待するところがあるのです。

順を追って私の考えを述べていきます。

 

 

前提①売れるものが正義である

ファミ通11月24日号には、ブルリフSのメインスタッフである岸田メル氏、ガストブランドの土屋暁氏、細井順三氏の3名が、ブルリフSについて語ったインタビューが掲載されています。

 

 

本稿ではこのインタビューからうかがえる3名の考えをベースに、論を進めていきます。もちろん、引用するのはインタビューの一部に過ぎないため、3氏の考えについてはファミ通を読んでから判断いただきたいと思います。

 

岸田氏は初代ブルリフについて、「いっそ、とことんニッチにしたほうがいい」と考えて作ったと語り、細井氏も以下のように述べています。

 

我々がこれまで『BR』(引用者注:ブルリフのことである)で目指してきた方向は、ちょっとニッチな部分があったのかなと思っています。ですので、「『BR』シリーズに興味はあるけど、触るのはちょっと敷居が高いな……」と感じていた方も正直いらっしゃったと思いますが、そういった方たちに「基本プレイ無料だからこそ、岸田さんが作った世界観に触れていただきたい」というのが正直な想いです。

 

明言はされていませんが、ここからうかがえるのは、プレーヤーの分身となる男性主人公を出すのは、今までの「ニッチな」――具体的には、女の子しか出てこないという――方向では売れないから、より間口を広げて幅広いユーザーにブルリフに入ってきてもらいたい、つまりより売れる作品を作りたいという製作陣の意図です。

このことに対して、「自分が見たいのはそれじゃない」と思うことは自由です。ですが、そう思うことを理由に製作陣を批判するのは少し違うように思います。ドライなようですが、そもそもゲームも商売ですから、売れるものを作らないと意味がありません。

今までのブルリフシリーズがそこまで売れていたかと言うと、決してそうではないというのが正直なところではないかと思います。製作陣の言葉を借りれば「ニッチ」なものなので、私を含め一部のファンには支持されていましたが、その支持は広がりに欠けるところがありました。

このような現状を踏まえると、製作陣がより売れるものを作ろうと今回の設定を考えたことはある程度理解できます(もちろん、それを踏まえても感情的な反発を覚える部分もあり、後述します)。これに対して「自分が見たいものはそれじゃない」と言っても、「だってあなたの見たいものだと売れないでしょう」と言われては、何も反論することはできないと言えるでしょう。

ブルリフSについての是非を議論する一つ目の前提として、つい「自分が好きかどうか」だけで判断してしまいがちですが、以上のように「売れるものこそ正義である」という視点を忘れずに持っておきたいと私は考えます。本稿では、「売れるかどうか」という視点に従って、ブルリフSについて考えていきます。

 

 

前提②本質を変更したうえでのマス向けシフトは失敗する

以上述べてきたところからすると、今回の変更を全面的に指示しているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。なぜならもうひとつの前提として、「本質を変更したうえでのマス向けシフトは売れない」という点があるからです。

前提として売れるものこそが正義である。それは正しいです。しかし、売れることだけ考えて、「その作品でやりたいことが何なのか」という本質が変わってしまうと、結局その作品は売れないのではないかと私は思うのです。作品が売れることを目指すなら、「何をやったら売れるか」を考えるのではなく、「これをやりたいのだが、どうすればそれが多くの人に伝わるか」を考えるべきです。

この前提について、ゲーム作品の知識が乏しい私が十分な論拠を示すことは難しいかもしれませんが、感覚的にわかるところではないでしょうか。

 

企業にたとえて言うならば、「理念を忘れた利益の追求は失敗する」と言えるかもしれません。そしてそのことは歴史が証明しています。

たとえば、本稿を読んでいるみなさんはソニーを知っていますね。ソニーはもともと、1946年の創業時、東京通信工業株式会社時代は、真空管の電圧計を製作する会社でした。しかし、それからテープレコーダー、トランジスタラジオ、さらにテレビ、ビデオカセットプレーヤー……と様々な商品分野に進出してきました。*1

しかし、これらソニーがやってきたことは単に利益を追求して大衆に売れるものを見境なく作ってきたのではありません。ソニーを創業した井深大は、創業時に「設立趣意書」を作っており、そこには以下のような「会社創立の目的」と「経営方針」が記されています。*2

 

会社創立の目的

一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設

一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動……

(以下長いので引用者略)

 

経営方針

一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず

一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する……

(以下長いので引用者略)

 

 

ソニーが次々に新製品の分野に進出して成功してきたのは、この「設立趣意書」に記された理念という本質を変えず、その本質がどうやったら達成されるのかを追求してきた結果であると言えます。決していたずらに利益を求めてきたのではありません。そのような姿勢は経営方針の一つ目で明確に否定されています。

ゲーム作品においても、このように本質を変更せずにいかにその本質が達成されるかを考えるべきであり、売れるために本質を変更するのはうまくいかないと言えるのではないでしょうか。

 

企業の例が不適切だとすれば、もう少しイメージしやすいところで、アニメーション監督の新海誠氏を思い浮かべると分かりやすいと思います。

新海監督は「君の名は。」で売れる以前、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、恋する相手とつながれない寂しさ、喪失感を特徴とする作品を出し、マス受けすることはなかったものの、一部のファンから熱狂的に指示されました。その彼が「秒速5センチメートル」の次に出したのが、「星を追う子ども」です。

星を追う子ども」はジブリ作品の作風をなぞった、それまでの作品と作風の異なるマス向けのジャンルのものでした。よりマスに向けた、売れることを目指した作品だったはずですが、興行的には失敗しました。それまでの新海作品の本質が変わってしまったからであると言えるでしょう。

これに対して、ヒットした「君の名は。」は、従来の新海作品の特徴である恋する相手とつながれない寂しさや喪失感を持っていると同時に、ストーリーのエンタメ性が増し、見事に大衆受けする形式になったものでした。*3

このように、売れるために本質を変えてマス向けにシフトしてもうまくいかず、「本質を変えないまま、いかにその本質が広く受け入れられるようにするか」を考えることが、エンタメ作品においては非常に重要なのです。

 

 

PVを見て感情的な次元で感じること

以上で述べてきたように、エンタメ作品については「売れることが正義である」と同時に、「本質を変えたマス向けシフトをしても売れない」という前提があると私は考えます。この2つの前提にしたがって、今回のブルリフSについても考えるべきです。この2つを踏まえずにブルリフSの変更点を批判することは、ソニーに対して真空管の電圧計を作り続けろと言うようなものであり、新海誠に対してRADWIMPSを起用するなと言うようなものです(?)。そこで本稿では、この2つの前提に基づいて、現時点で開示されたブルリフSの情報について吟味していきます。

冒頭で私は期待4割、不安6割と述べました。感情的な次元では、不安が大きく占めているのです。なぜなら、PVを見ると、第二項で述べた「本質を変えたうえでのマス向けシフト」をブルリフ製作陣がやろうとしているように感じてしまうからです。製作陣がより売れる作品を作りたいと意図していることは第一項で確認した通りです。しかし、それは本質が受け入れられるようにすることを考えてのことではなく、本質を変更することを考えてのことなのではないかという印象を、感情的な次元では受けてしまうのです(もっとも、本稿で一番主張したいことはこの点ではありません。理性的な次元では違い、後述します)。私が不安を感じる点は、以下の二点です。

 

まず第一に、これまでのブルリフシリーズは、初代、澪、帝ともに女の子同士の関係性、いわゆる「百合」要素がウエイトを占める作品でした。これらの作品の流れに反して、男性主人公を登場させるということは、本質の変更というふうに直感的には映ります。

男性主人公が出るというだけではありません。前述したファミ通の記事を見ると、ゲームのプレイ画面が載っており、キャラクターにプレゼントを渡して好感度を上げるというように見て取れる画面があります。そんなギャルゲーみたいな不純で不潔なことを、私はブルリフのような綺麗な世界観を本質とする作品でやって欲しくありません。確かに今までのシリーズで初代や帝でも女の子同士のデートで好感度を上げるイベントはありましたが、それはたとえば古墳を一緒に見に行ったり(?)、学校開発で築いた施設で心の交流をしたりと、もっと清純で綺麗なものであったはずです。

 

第二に、この主人公がプレーヤーの分身と位置付けられていることです。

先に述べたファミ通のインタビューで、岸田氏は以下のように述べています。

今回はアバターとなる男性主人公に感情移入してもらって、もう彼は自分自身だと思って、女の子たちがたくさんいる世界で女の子たちといっしょに冒険してほしいという想いがあります。

この岸田氏が述べた点について、私は直感的に強い拒否感を覚えました。この拒否感がどこから来るのかを考えたときに、件のインタビューにある以下の細井氏の言葉がヒントになりました。

もちろん、これまでのファンの皆さんが「なんでこんな綺麗な世界に男がいるんだ」と思われる気持ちはわかります。

ここを読んだときに、そうじゃないんだよ、と言いたくなりました。男がいることが問題なのではありません。自分の分身がいることが問題なのです。私は、この醜く汚い自分とは無縁の、少女たちの綺麗な世界を外から眺めていたいのです。なぜ醜く汚い存在である自分の分身が、その綺麗な世界に入っていかなくてはいけないのでしょうか。……自分で書いていて思いましたが、気持ち悪いですね。すみません。

こういった私の想いは、PVを見てさらに強まりました。ブルリフSのPV第二弾では、初代ブルリフの主人公である白井日菜子が、画面越しに「お願い――。あなたの力を貸してほしい あなたなら――きっと」と、私たちの分身である主人公に訴えかけるという構成になっています。


www.youtube.com

私はこれを見て、吐き気がしました。反吐が出そうです。日菜子には、自分とは無関係の天上の人であってほしかった。その日菜子が我々と同じ地に堕ちてきたのがこのPVです。白井日菜子という、敬虔で神聖な存在が、何者かの手によって汚されたように感じました。……やっぱり気持ち悪いですね、すみません。

 

ともあれ、今まで開示された情報で私が感じる不安は、このように単なる主人公の性差によるものではありません。このようなブルリフの綺麗な作風が壊れてしまうのではないかという懸念こそが、私の不安を生み出しているのです。

そして繰り返しになりますが、「私が嫌いだから」という理由でブルリフSを批判しているのではありません。これらの変更が、「本質を変えるマス向けシフトである」、すなわち「売れない、失敗する」のではないかと危惧しているからこそ、こうして不安の声を上げているのです。

 

 

理性の次元で、ブルリフの本質を考えてみる

このように感情的な次元では今回の情報に大いに反発と不安を感じているところであり、まだプレイもしないうちからブルリフSの変更を批判してきました。ですが、これらはあくまで感情的な次元の話です。理性の次元で、もう一歩立ち止まって考えてみたいことがあります。それは、「そもそもブルリフの本質とは何か」ということです。ここまでブルリフSの変更が「本質を変えるマス向けシフト」ではないかと考えてきましたが、冷静に立ち止まってみれば、「ブルリフの本質が何か」を考えることなくして、「本質を変えるマス向けシフト」なのかどうかを考えることはできません。

前述のインタビューを読むと、岸田氏はこうも言っています。

僕らが1作目でやりたかったことは、“女の子だけの世界”というわけではなかったんです。

岸田氏の言を信じるならば、「女の子だけの世界」はブルリフの「本質」ではないと言えます。

また、岸田氏は以下のようにツイートしています。

では、氏の言う「根底の大事にしている部分」、すなわちブルリフの本質とは何なのでしょうか。このブルリフの本質とは何かを明らかにすることは、本稿の目的ではありません。それを示すには、もっと膨大な考察が必要となるでしょう。本稿で主張したいのは、この「ブルリフの本質とは何か」を明確にしてから、ブルリフSについて意見を述べるべきであるということです。「本質を変更したマス向けシフト」ではなく、「本質がより広く受け入れられるための変更」であるならば、それは売れるものであり、売れるものが正義であるからです。

ブルリフの本質は百合である? それもいいでしょう。それならば、男性主人公を入れたことは批判すべき対象になります。ブルリフの本質は岸田メルのデザインした美少女がリフレクター(イローデッド)に変身した姿である? それもいいでしょう。それならば、今回のブルリフSは何ら批判すべきことではありません。

上記のように、自分が好きか嫌いかという低い次元の話ではなく、ブルリフの本質は何なのかという理性的な視点で、私たちブルリフシリーズのファンはブルリフSについて議論すべきです。第三項で私が気持ち悪く書いてきたような好き嫌いの感情の次元で話している以上、そこには何も生まれません。

 

さて、ブルリフの本質が何なのかを明らかにすることは本稿の目的ではないと述べましたが、それでも全くその点について触れないわけにはいかないので、まとまらないながらも私が現時点でおぼろげながら思い浮かべているブルリフシリーズの本質について書いておきたいと思います。具体的な考察はまたの機会に譲りますが、私が思い浮かべるブルリフシリーズの本質は以下の二点です。

第一に、少女たちの繊細な心理描写です。初代ブルリフで日菜子が自らの真実を知ったとき、そして最後に選択を迫られたときの感情の機微。ブルリフRで平原陽桜莉が過酷な運命に傷つき、苦しみもがきながらも前に進んで行く姿。ブルリフTで星崎愛央が自らの平凡さに悩みながらも、リーダーとしての自分を自覚していく過程。それらの繊細な心理描写こそ、私をブルリフシリーズに惹きつける大きな魅力であると言えます。

第二に、悲しみや苦しみ、痛みに寄り添う作風です。初代ブルリフで、日菜子は膝の怪我によるバレエダンサーとしての挫折を経験したからこそ、フラグメントを暴走させる少女たちの感情に寄り添うことができました。ブルリフRで、陽桜莉は悲しい出来事を経験しつつも、苦しむ少女たちの想いを守りたいと願い、その想いに寄り添いました。ブルリフTで、星崎愛央は自らのあり方に悩みつつも、仲間である少女たちの苦悩や葛藤に寄り添い、少女たちと助け合う関係を築きました。これらの優しくて繊細なブルリフの世界観に、私はどれだけ救われたかわかりません。

これら二点が引き継がれているのであれば、たとえどれほど感情的に反発を覚える変更がなされたとしても、ブルリフSも立派なブルリフシリーズと言えるのではないか。私はそう考えています。これが、冒頭に述べた「理性的な次元で感じる、期待4割」です。

 

もっとも、以上で述べたのは私が感じるブルリフの本質にすぎません。ブルリフシリーズのファン、人それぞれ思い描くブルリフの本質は異なるでしょう。だからこそ、その本質が何なのか、ブルリフSについて議論を交わす前に、一人ひとりが突き詰めて考えるべきなのです。真にブルリフシリーズの永続と発展を願うのならば、短絡的な思考に陥ることなく、ブルリフの本質について熟考すべきです。

 

今こそ、私はこう宣言したいのです。

ブルリフファンよ、ブルリフの本質が何なのかを考える時が来たわよ~。

 

末筆ながら、ブルリフSがブルリフの本質を引き継いだものであり、ブルリフSをきっかけにブルリフシリーズがさらなる発展を遂げることを願ってやみません。

 

ここまで拙文をお読みくださった方、ありがとうございました。

女性声優によるアカペラプロジェクト「うたごえはミルフィーユ」がオタクにぶっ刺さりそうだという話

GW初日。前夜の仕事の疲れをとるべく昼まで寝て、ぼんやりした頭でTwitterを眺めていると、フォローしているアニメ・声優系のニュースアカウントが発信した一件のツイートが目に入りました。

「女性声優による超本気アカペラプロジェクト『うたごえはミルフィーユ』……?」

何となく惹かれるものを感じて、私はそのツイートのリンクをクリックして記事を読みました。どうやら、前日に発表になったばかりのプロジェクトのようでした。ボイスドラマ形式で動画が配信される予定のコンテンツとのことですが、現時点で公開されているのはキャラクターを紹介する公式HP、PVと声優さんが歌うアカペラの動画のみでした。

しかし、たったそれだけの情報しか公開されていないにもかかわらず、私はどうにもこの作品が自分の好みにぶっ刺さるコンテンツになるような気がしてならないのです。

まだ始まってもいないプロジェクトについてわざわざ記事を書くのも変ですが、この作品に期待するところを書いておきます。

 

「輝かなくても、青春だ。」というキャッチコピーが刺さりすぎる

日蔭者、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。――太宰治人間失格」より

 

公式HPを開くと、まず6人のキャラクターが描かれたキービジュアル、そして「――輝かなくても、青春だ。」というキャッチコピーが目に入ります。

うたごえはミルフィーユ(うたミル) 公式サイト (utamille.com)

このコピーがオタクの心にぶっ刺さるんですよね。オタクとは、キラキラした青春とは無縁の、暗い青年期を過ごしてきた人種です。ですから、冒頭に引用した「人間失格」の一節のように、自らと同様の境遇にある人物を見ると、それはまあ優しい心になるわけですよ。

HPのキャラクター紹介を読んでみると、主人公の小牧嬉歌(うた、と読むらしい)については、以下のような記載があります。

歌うことが大好きな少女。ただし、極度の人見知りの内弁慶でヘタレでチキン。高校で軽音部デビューしようと、部室を覗くも部員たちの輝かしいオーラにビビり、2週間以上挙動不審にうろつく。(中略)アカペラのマイナーさ、地味さに戸惑い続けるもハモることの楽しさに目覚め始める。

この設定ですよ。これこそ俺らと同じ人種です。そうだよね、軽音部みたいな日なたの世界に生きる人間って、俺らと別世界の住人だよね、と共感の嵐です。日なたの人間じゃなくて、日蔭に生きる人間。そんな日蔭者と、アカペラの地味さ、マイナーさを結び付けた設定は、オタクの心にぶっ刺さるファインプレーと言えるでしょう。

キャッチコピーから察するに、キラキラした青春を持ちようもない暗さを抱えた日蔭者たちが、彼女たちなりの青春を見せてくれるのでしょう。それがどのように描かれるのか、オタクにとっては今から楽しみでなりません。

 

「コンプレックス」が刺さりすぎる

公式サイトには、「アカペラ×女子高生×コンプレックス」という作品コンセプトが記載されています。

コンプレックス……!コンプレックスの塊みたいな人種であるオタクには刺さりすぎるワードです。

キャラクター紹介を見ても、チキンな嬉歌だけでなく、「周囲に高いレベルを望みトラブルを起こしがち」な繭森結、「声が低いことで周囲にからかわれた過去がコンプレックスになって」いる熊井弥子など一癖も二癖もありそうな人物がそろっています。

コンプレックスを描くであろうこの作品に期待するところは、コンプレックスをアカペラ歌唱に昇華することです。

公開されたPVを見ると、「なんでいつもうまくいかないんだろう」「一緒にやろう……できない人間同士」など、コンプレックスありありなセリフがあることがわかり、これだけでオタクは叫びたくなりますが、注目すべきなのはそれだけではありません。「迷ったら私を見ろ」「これだけは、逃げない……!」など、コンプレックスを乗り越えて歌唱に臨むのであろうことを想像させるセリフもあるのです。

youtu.be

歌についての文脈が加わることでその歌の与える叙情的な側面が強くなるのは、いわゆる「歌もの」のコンテンツが持つ特徴です。本作においてぜひ期待したいのは、このコンプレックスの克服を描写して歌唱につなげることで、曲が持つ魅力が最大限に引き出されることです。

コンプレックスを抱える少女たちが、それでも自らの葛藤と向き合い、それをアカペラ歌唱に昇華する――。ボイスドラマとアカペラ歌唱という二本柱の展開が予想される本作ならば、そのような描写が可能でしょう。始まっていないのに気が早いですが、そんな場面を目にした日には、面倒くさいオタクである私は彼女たちに感情移入し過ぎて、泣いてしまうかもしれません。

個人的な好みを言えば、私は一般的な「部活もの」のコンテンツに興味が持てません。描かれる部活そのものには興味がないからです。そうではなく、「部活もの」であっても、その部活に人物の価値観や人生観が投影され、「部活を描く」のではなく、「部活を通して、人生を描く」ものには惹かれます。本作からはそのような作品になる予感を覚え、期待を禁じえません。

 

実際のアカペラ動画が刺さりすぎる

公式チャンネルでは、メンバーによる奥華子「ガーネット」のアカペラカバー動画が公開されています。

youtu.be

初めて聞いたとき、美しいハーモニーに鳥肌が立ちました。今日聞いたばかりなのにもう10回以上ヘビロテしています。個性もバラバラな6人の歌声が織りなす旋律に、心が引き付けられてやみません。

小森嬉歌役の綾瀬未来さん。現役高校生ということですが、無二の声質で、ずっと聞いていたくなる歌声を持っています。これは逸材を見つけてきたな、ポニキャ……!

繭森結役の夏吉ゆうこさん。個人的には他作品で抜群の歌唱力を持っているのを知っていましたが、本作においてものびやかで力強い歌声を披露しています。

古城愛莉役の須藤叶希さん。天使のような透き通った独特の歌声で、その声を少し聞いただけで天に上るような不思議な気持ちになりました。

近衛玲音役の松岡美里さん。これまた独特のハスキーなアルトの声を持っていて、3rdコーラス担当ですが、ソロ歌唱も聞いてみたい印象を受けます。

ベース担当、熊井弥子役の相川遥花さん。歌よりもPVを見た時の喋っている声の低さにびっくりしました。3:18あたりで主旋律の1オクターブ下を歌っていますよね。

ボイスパーカッションの花井美春さん。本当にボイパ初心者なの?ボイパというものを知らな過ぎて、最初何か声以外の楽器を使っているのかと思いました……。

以上のように全く個性がバラバラで声質が被るところのない6人の歌声ですが、それがきれいに一つにまとまってしまうのだからすごいです。ここまで歌えるまでに演者の皆さんが積んだ修練を想像すると、頭が下がります。

演者の皆さんがこれほど歌えることを考えれば、前述のように今作が持つ物語性と音楽性が合わさった時の威力は大きなものになるでしょう。今回はカバー曲でしたが、オリジナル曲もあるのでしょうか。もちろんカバーだけでも素晴らしいのでしょうが、やはりオリジナル曲もあると嬉しいですね。楽しみでなりません。

 

 

以上、始まる前から気の早すぎるオタクの面倒くさい語りでした。刺さるコンテンツになりそうなにおいがプンプンする本作のことを、心から応援しています。

「戦わない者」たちに感じる寂寞~勇者史外典感想・考察~

現在3期である「大満開の章」が放送中のTVアニメ「結城友奈は勇者である」。その外伝小説である「勇者史外典」が11月30日に発売されました。

1期の「結城友奈の章」放送時からのシリーズファンであり、外伝小説第一弾「乃木若葉は勇者である」も第二弾「楠芽吹は勇者である」も読んだ私としては、当然今回の「勇者史外典」も購入して読みました。

読後感としては、相変わらず朱白あおい氏の筆致が素晴らしかったです。登場人物の心理を巧みに描き、同時に勇者であるシリーズの世界観を深堀りする氏の手法は見事と言うほかありません。

しかし、素晴らしさを感じると同時に、ある種の寂しさのようなものが胸に去来しました。これはなぜなのでしょうか。

私が感じた寂しさのような感情は、「『勇者史外典』の登場人物が、戦わない人物である」ということからきているのではないかと考えるようになりました。どういうことか、詳しく書いていきます。

 

「勇者である」とはどういうことか

「勇者史外典」は、「上里ひなたは巫女である」「芙蓉友奈は勇者でない」「烏丸久美子は巫女でない」の3篇からなります。しかし、「上里ひなたは巫女である」は、上里ひなたを描くというよりは、安芸真鈴、花本美佳を含めた3人を描く形式となっています。したがって「勇者史外典」で人物の内面を深く描いているのは、実質的に「芙蓉友奈は勇者でない」「烏丸久美子は巫女でない」の2篇です。

今まで「勇者である」シリーズからすると、「勇者でない」「巫女でない」というタイトルの付け方は特異に感じます。しかし、このタイトルにこそ、「勇者史外典」の本質が表れています。

これは、単に登場キャラクターが特別な力を持った「勇者」「巫女」ではないということを意味するにとどまりません。「勇者である」ものと「勇者でない」「巫女でない」ものの違いとは、「戦うかどうか」、もっと詳しく言うと、単に物理的に戦うかどうかだけではなく、①自己の内面②体制の2つと戦うかどうか、であると言えます。①自己の内面を変化させる意志②体制への反発、の2つがあるかどうかであると言ってもいいでしょう。

 

結城友奈は勇者である」においては、友奈たち勇者部の面々が、それぞれ①の内面の変化を経験します。友奈は行き過ぎた自己犠牲精神を克服し、「無理せず自分も幸せであること」を学びました。東郷は壁を壊そうとしたり、一人で奉火祭の犠牲になろうとしたりした末に、自らの考えを改めます。風は妹の樹を巻き込んでしまった罪悪感と向き合い、樹は姉の背中を追う自分ではなく姉と並び立つ自分になろうとします。当初勇者部の面々となれ合うつもりはないと言い放っていた夏凛は、「大赦から派遣された勇者ではなく、勇者部の一員として戦う」ことを選びます。それぞれに、内面の葛藤と向き合って、結論を出していったのです。また、②についても、大赦が進めようとした神婚を止めたことをはじめ、勇者部は常に体制への懐疑の心を持っていました。

「乃木若葉は勇者である」においても同様です。①について、主人公である若葉は、当初多くの犠牲を出したバーテックスに報いを受けさせるという復讐のために戦っていましたが、やがて死者よりも、生者のために戦うことを選びます。②についても、郡千景に対する大赦の処遇に反発し、またバーテックスとの戦いの後も、未来の勇者たちのために戦いを続けます。

「楠芽吹は勇者である」の主人公である芽吹は、立場上は特別な力を使える勇者ではなく、量産型の「防人」と呼ばれる存在です。ですが、作品が「勇者である」というタイトルであるのは、芽吹が自身の内面と向き合い、変化していくからにほかなりません(①)。芽吹は当初、勇者になることを目指しますが、仲間を不要とするその独断的な思考が原因となって、勇者の選考で夏凛に敗れます。その後の芽吹は防人として過ごすうち、仲間の大切さに気付いていき、今までの頑なな人物に変化が生じることによって、仲間からは「勇者である」と認められます。それは、防人を使い捨ての存在とみなす大赦のやり方に反発し(②)、「犠牲ゼロ」という方針を貫いたからでした。最終的に芽吹は防人のままで、勇者になることはできませんでしたが、その内面は間違いなく「勇者である」と言えるでしょう。

 

柚木友奈は戦わない

さて、以上の点をを踏まえて「勇者史外典」を見ていきます。まず、「芙蓉友奈は勇者である」においてはどうでしょうか。作品タイトルは「芙蓉友奈は勇者である」ですが、実際に作品の語り手となっており、内面が描写されるのは柚木友奈です。

f:id:mitsubakaidou:20211214000715p:plain

まず、①の面から柚木を見てみます。柚木は、特別な存在につけられる「友奈」という自分の名前を嫌う人物として描かれます。「友奈」という名前を嫌うようになったのは、幼少期の出来事がきっかけでした。ミニバスケチームの選手として活躍していた柚木は、ある日出場した四国大会において、一方的な試合で一回戦負けという結果を味わいます。そのときに、「友奈」という名前のせいで実力以上に持ち上げられていたことに気づきます。柚木は以下のように語ります。

「私は友奈の名前を自分の力だと思い込んで、持て囃されて勘違いして……。恥ずかしかったし、悔しかった。友奈じゃない私は、特別な力なんてない、ただデカいだけのバカ女だ。自分がすごく醜い存在に思えた。今でもそう思ってる」

「私は……ずっと力が欲しいって思ってる。友奈って名前を恥ずかしくなく思えるように。たとえ名前のせいで過大評価を受けても、自分はこんなことが出来るんだって自信を持って言えるように……でも、私にはどう考えても、特別な力なんてないんだ」

この柚木の内面の葛藤は、最終的な場面で、乃木若葉や上里ひなたと出会い、勇者や巫女であった彼女たちも無力さに抗い続けたということを知ったことにより、一応の決着を見ます。

「上里様みたいな人でも、無力だなんて思うんですね……」

「ええ。人は常に自分の無力さを受け入れながら、それに抗って生きていくしかないんです。あなたたちの名前の由来となった高嶋友奈さんも、彼女の身近にいた私たちから見れば、自分の無力さに抗い続けた無力な人間の一人でした」

私は自分の無力さが許せなった。

高嶋友奈に比べて、何もできない自分が哀れだった。

でも、世界の英雄でさえ無力なら――

私は自分の無力さを許してあげられるだろう。

この『友奈』という名前を受け入れられるだろう。

ある意味では、柚木の成長、内面の変化と言えるでしょう。しかし、最後の2行が「私も無力さを受け入れて、それに抗い続けよう」ではなく、「無力さを許してあげられるだろう」で終わっていることに注目すべきです。その内面の変化が、自らの努力ではなく、「無力さを許してあげ」るという諦観によって達成されている点が、「勇者」と決定的に違います。自己の内面の葛藤との決着の付け方がそこで終わっている以上、これ以上の内面の変化は望めません。

②についても、柚木は「勇者」と決定的な差異を抱えています。クライマックスのシーンで、柚木は四国と外界を隔てる壁を登攀します。それは、②の体制への反発からでした。

私が命をかけて壁を超えるのは――

リリの願いを叶えてあげたいからと、

リリの無茶を止めたいからと、

この中途半端でやるせない時代への反抗のためだ。

世の不条理への反発だ。

しかし、柚木は自力で壁を越えることはできず、体制側となった若葉とひなたに壁の外を見せられるとともに、壁の外のことについて脅しを交えて口を封じられます。体制への反発は、体制の圧力に屈したのです。

芙蓉友奈と柚木の日常がこれまでと変わらずに続いていくことを予感させて、物語は幕を閉じます。内面の葛藤にも、体制にも抗うことをやめた柚木が、これから戦うことはないでしょう。

 

丸久美子は戦わない

もう一方の「烏丸久美子は巫女でない」はどうでしょう。

f:id:mitsubakaidou:20211214000757p:plain

まず①についてです。主人公の烏丸久美子は、「普通である」ことを極端に嫌う人物として描かれます。

「私は混沌とした状況の中に身を置くことが楽しい。その楽しみのためなら、なんでもやる」

「『予想通り』や『平穏』ということが怖いんだ。同じ日常や決まりきった出来事が繰り返されるということが、どうしようもなく怖い」

このように語る烏丸は、星屑の襲来を受けて安全な四国へ避難する人々を乗せたバスを運転しているにもかかわらず、四国へ向かうことを拒否します。

このような烏丸と対をなすのが、巫女である横手茉莉です。茉莉は、普通に生きることを幸せだと考える人物として描かれます。四国へ向かうことを拒否する烏丸と茉莉は対決します。

この対決に敗北した烏丸は四国へ向かうことを受け入れますが、受け入れたのは改心したからではなく、茉莉に左腕をペンで刺されからだという物理的な原因であることに注目すべきです。この点が、「勇者」と決定的に違います。

敗北した烏丸は茉莉にこう語ります。

「お前のことが羨ましいと言った。それは本心だ。普通に生きることを幸せだと思えるなら、それが一番なんだ。私は――お前のようになりたかった。お前のように、普通に生きることを幸せだと思える人間に」

自己の内面を変革したいと考えつつも、勇者たちとは違ってできなかった存在。それが烏丸久美子なのです。

②についてはどうでしょうか。烏丸は、茉莉を巫女として迎えに来たひなたに対し、茉莉の代わりに自分が巫女ということにしてほしいと頼みます。これも、「普通に生きることが幸せだと感じる茉莉に変わってほしくない」「自分が楽しみたい」という、烏丸の内面が原因です。

頼みは聞き入れられ、代償として大社に入った烏丸はひなたに弱みを握られ、絶対に服従しなくてはならない状況に追い込まれますが、烏丸はそれを楽しんでいました。ここにおいて、②の体制への反発は皆無であり、むしろ烏丸は体制とズブズブの関係にすすんで入っていったという点で、勇者と根本的に思想を異にしていると言えるでしょう。

ラストでは、還暦近くなった烏丸が、茉莉と再会します。高嶋友奈が勇者となったことは間違っていたと断じる茉莉に対し、烏丸は友奈の犠牲のおかげで多くの人の命が救われたことを理由に、高嶋が勇者となったことは最善の選択だったと語ります。これこそ、TVシリーズで勇者部が否定してきた「少数の犠牲で多数を救う」という体制の論理にほかなりません。

烏丸の内面も、ひなたに服従する状態も一生変わらないことを予感させて、物語は幕を閉じます。烏丸が何かを変えようとして戦うことは一切ないでしょう。

 

「戦わない者」たちの物語

以上見てきたように、勇者史外典は、自己の内面を変革し、体制へ反発する「勇者」とは異なる物語となりました。この点について、朱白あおい氏もあとがきで以下のように述べています。

勇者であるシリーズと言えば、勇者たちの熱く感動的なバトルが醍醐味だろうと考える方が多いと思いますが、本作は「勇者でない者たちの戦わない物語」をコンセプトとしました。(中略)私は『乃木若葉は勇者である』『楠芽吹は勇者である』という全に咲くを執筆し、戦う者たちの話を書くことに燃え尽きていました。

「これ以上戦う者たちの話を書いても私には前二作の劣化版しか書けません」と泣き言を訴え、私から企画を提案させていただき、連載が開始されました。

氏がいう「戦わない」とは、本記事で見てきたように、単に物理的に戦わないということではなく、①自己の内面②体制、の2つと戦わない、ということを示唆しているように思います。

そして、「前二作の劣化版しか書けません」というのは、謙遜抜きにそのとおりなのでしょう。「戦う者」たちの物語として、「結城友奈」「乃木若葉」「楠芽吹」はあまりに秀逸でした。

このような中で、「戦わない者たち」の話を見事な筆致で描き上げ、勇者であるシリーズの世界観を掘り下げた氏の手腕は賞賛に値します。シリーズファンとして、私は心から惜しみのない拍手を贈りたいと思います。しかしその拍手は、野球にたとえて言うならば若手のころは剛速球で真っ向勝負して三振の山を築いていたのに、ベテランとなって剛速球を失う代わりに緩急をつけたピッチングで丁寧に四隅をつき凡打の山を築いている投手に贈るような拍手です。

すでに多くのファンが指摘しているように、「勇者史外典」の書き下ろし番外編に登場する「横手すず」という名前は、勇者の章で登場した石碑に刻まれている名前であり、ここからも「勇者であるシリーズ」は続いていくことが予感されます。しかし、それはもはや「戦う者」たちの物語ではないのでしょう。

勇者であるシリーズの世界が広がる喜びと同時に、戦う者たちの物語が見られないことに対する一抹の寂しさを感じつつ、筆をおきます。拙文をお読みくださった方、ありがとうございました。

ワンダーエッグ・プライオリティの主題歌はなぜ巣立ちの歌なのか~ワンエグ特別編考察~

アニメ「ワンダーエッグ・プライオリティ」の特別編が放送されました。

 

結末が見えないところで終わった最終話から3か月、ついに結末が……?と期待してみたところで、あの最後。見ていて、

「いや、そこで終わるな」

とつい声に出して言ってしまいました。

 

何とも結末のない、一見すると中途半端なところで終わったように見えます。しかし、このように最後の最後まではっきりと描かないアニメこそ、考察のしがいがあるというもの。賛否は分かれるでしょうが、私はこのアニメのことを考えれば考えるほど、中途半端なところで最終回が終わった駄作であるとは思えないのです。特別編がどのような意味を持つのか、私なりの考察をまとめてみます。

それにはまず、特別編の前に本編が持つ意味を考えておく必要があります。

 

本編考察~彼女たちは何と戦っているのか~

そもそもアイたちは何と戦っているのでしょうか。

アイたちが戦うべきものは、「死の誘惑」「タナトス」「あどけない悲しみ」と表現されていますが、作中にはこの「死の誘惑」について、いくつかヒントになる場面やセリフがあります。

第5回でねいるが助けた葵という少女は、「今が一番きれいなの。若さって何物にも代えられない」「なぜ一番美しいときに死なないの?」と語ります。

また、第12回で沢木先生も、「大人の愛は汚い」「君たちもいずれそうなってしまう。だから大人になる前に死んだほうがいい」と言っています。

これらのセリフが「死の誘惑」を象徴しています。つまり、無垢な少女性を保存したいという欲求こそが「死の誘惑」です。

エッグ界の少女たちはみな無垢な少女性を持っていますが、これに対してエッグ界のワンダーキラーは汚い大人ばかりです。少女たちは、不条理な現実や汚い大人に対抗できず、「死の誘惑」に取り込まれてしまったのでしょう。

なお、アカと裏アカの会話で、「男は目的脳、女は感情脳」であるため、エッグ世界に「男はいない」ということが明かされます。これも、無垢な少女性を表していると言えるでしょう。

 

では、「死の誘惑」と戦うアイたちはいったい何なのでしょうか。

作中では、「エロスの戦士」と表現されます。「死の誘惑」と対になる存在が「エロスの戦士」です。したがって、「死の誘惑」のように無垢な少女性を保存することはできません。彼女たちは成長し、大人になっていく運命にあります。

大人になるとは、「自己の嫌いな部分を肯定すること」であると読み取れます。第2回で、ねいるがアイに対して、アイは「嫌いな自分を変えたくて」エッグを割るのだと指摘する部分がありますが、これはアイ、リカ、桃恵いずれにも当てはまります。

アイは沢木に恋心を抱いていることを肯定することで、コンプレックスであったオッドアイもさらけ出し、学校へ行くことが出来ました。

リカは第7回で、「私は弱い。だけどそれがまんま私」と、弱い自分を受け入れることができました。

男子のように見られることがコンプレックスであった桃恵は、アイから女子として見られたことを経てアイたちと友達になり、男子の心を持つ少女であるかおるから「素敵な女の子」として見られたことで、自己の容姿を肯定できたと思われます。

AIであったねいるはおいておくとしても、ほかの3人はみな、自己の嫌いな部分を肯定することが出来ました。逆に、エッグ界にいる自殺した少女たちは、自己の嫌いな部分を肯定することができずに、「死の誘惑」に負けて自殺したとも取れます。ワンダーエッグ・プライオリティとは、自己の嫌いな部分を肯定することで、汚い大人に対抗し、死の誘惑を拒否する話であると言えるでしょう。

 

しかし、「嫌いな部分を肯定する」ということは、「死の誘惑」の性質である「無垢な少女性を保存する」ということと両立しません。「嫌いな部分を肯定する」ということは大人になってからできるようになることであり、「死の誘惑」サイドからすれば「汚い」ということになるでしょう。

アイ、リカ、桃恵の3人は、クリア時に「死の恐怖」を知ることで、「大人になってしまった」わけです。それを見せつけられるのが特別編です。

 

特別編考察~ワンダーエッグ・プライオリティの主題歌はなぜ巣立ちの歌なのか~

特別編では、アイ、リカ、桃恵の3人がカラオケに集まります。エッグを割りに行くかという話になったとき、まず桃恵は「傷つきたくない」という理由で拒みます。これに対してリカは「臆病者」と言っていますが、これらのシーンはまず桃恵が「大人になってしまった」ことを表現しています。傷つくことを恐れずに目的を果たそうとするのが少女なら、傷つきたくないという理由で逃げるのは大人です。不条理な現実を知り、「ミテミヌフリ」をするのが大人です。

カラオケのシーンの帰りに桃恵がひとり電車を先に降りますが、まさにこのシーンこそ、桃恵が「大人になった」ことを象徴しています。彼女は「青春」という列車から降りたのです。列車を見送る桃恵の表情が、幸福感のある笑みであると同時に、どこか寂しさを感じさせるのが何とも印象深いです。まるで、もはや戻ってこない青春の1ページを振り返って、それを懐かしむ大人の表情そのものです。

桃恵に対して、まだ大人になり切れていないアイとリカはねいるの家に行きますが、そこで「ねいるはAIだった」という衝撃の事実を知ります。これに「あたしは降りる」とリカが真っ先に言いますが、これこそがリカも「大人になった」ことを表現しています。

そして、アイもねいるからかかってきた電話に出ず、スマホを窓の外へと投げてしまいました。「生き返らせたかった人は努力の結果生き返ったが、元通りの人格ではなかった」「友達だと思っていたねいるが実はAIだった」という圧倒的な不条理な現実から逃げてしまう……これこそが、アイが大人になった瞬間です。

さて、ここにおいて、なぜこのアニメのOPが「巣立ちの歌」であったのかがよくわかります。少女たちは無垢な少女性を保存するという選択肢を選ばず、大人になったのです。もう青春時代は戻ってきません。「エロスの戦士」たりえることもありません。

いざさらば……。特別編で、「みんなとは自然消滅」し、「あんなにどきどきしたした季節を忘れるわけない」と述懐するアイは、まさに青春時代を懐かしむ大人の姿にほかなりません。

 

そう思っていた矢先、アイは通りがかった少女の会話からねいるのことを思い出し、エッグを割りに行きます。「アイ、復活」……。それは、青春時代への回帰です。不条理な現実に傷つかないことよりも、傷ついてもいいから不条理と戦うことにプライオリティを置いていれば、青春へ戻ることができる……。ワンダーエッグ・プライオリティ特別編は、そんな話だったのではないでしょうか。最後のアイの行動は、不条理な現実をたくさん知った我々大人に、一縷の希望を与えてくれているように私には思えました。不条理な現実から逃げ出しても、また戻ってくるアイは、まさに「負けざる戦士」であると言えるでしょう。

私の考察はここまでですが、これでもまだ考察が足りないところがたくさんあるように感じます。一見すると結末を書かずに終わったように見えても、考えてみれば余韻がある方が考察の余地があり、作品について思いを巡らせたくなるものです。考察してもまだ足りないところがあるという点で、ワンダーエッグ・プライオリティは間違いなくいいアニメでした。私のような浅い考察でも、このアニメについていろいろと考察している人の中で、枯れ木も山の賑わいになればいいなと思います。ここまでお読みくださりありがとうございました。

「壁」が壊れるとき~劇場版 プリンセス・プリンシパル Crown Handler 第1章考察・感想~

はじめに

2月11日に公開された映画「プリンセス・プリンシパル Crown Handler 第1章」。個人的に2月は忙しかったこともあってなかなか観に行けませんでしたが、3月に入ってようやく観に行けました。結論から言うと、TVシリーズの続編として素晴らしいの一言に尽きます。もう公開終了も近づき、上映している劇場や回数が減りつつある中、2週連続で観に行ってしまいました。映画館から帰ってきた勢いでこの記事を書いています。

f:id:mitsubakaidou:20210315203236j:plain

↑ちなみに来場特典のフィルムはタイトルロゴでした。ある意味レアでは……。

秋には第2章が公開予定ということで、なぜこの作品が続編としての素晴らしさと、今後の展望を述べてみたいと思います。

それには、まずTVシリーズがどのような作品だったのかを振り返っておかねばなりません。

 

 

TVシリーズ振り返り① 嘘

この作品において、まず第一に「嘘」が重要なキーワードであることは疑いありません。「殺すのか」というエリックの問いかけに「いいえ」と言いながらエリックを撃ち殺すアンジェが象徴的です。このほかに、

・1話でエリックの妹のために保険金を用意したアンジェに「優しいのね」と語りかけるプリンセスに、「私は優しくなんかないわ」と答えるアンジェ

・10話でドロシーが友達の委員長を撃たなくて済むように委員長に仕掛けたが、その理由を「任務を確実に遂行するため」と語るアンジェ

・11話でプリンセス暗殺指令に「命令には従うだけ」と答えるアンジェ

など、アンジェがついた嘘を数え上げればきりがありません。

 

また、チーム白鳩の面々はみな嘘をついています。

・アンジェとプリンセス→幼少期からの知り合いであり、入れ替わっている

・ドロシー→プリンセスを監視していることを仲間は知らないこと

・ちせ→チーム白鳩に属しつつ、日本が王国につくか共和国につくべきかを探っている

・ベアト→……あれ?まあいいや。

 

では、なぜこれらの嘘は必要なのでしょうか。それは、この作品世界の中で生きていくためです。

プリンセス・プリンシパルの作品世界は、残酷で無慈悲なものとして描かれます。王族は優雅な暮らしを営む一方で、市民は貧困に苦しみ、11~12話では再び革命が起きる寸前までいきました。プリンセスはもともとスリの女の子でしたし、ドロシー、ベアト、ちせそれぞれ「優しい父親」に恵まれていないのも、この残酷な世界を象徴していると言えるでしょう。3話でベアトが「神様は何もしてくれない」と言っていたり、8話でアンジェが「ひどい国よね」と言っているのがわかりやすいと思います。

このような世界を生き抜くうえで、「嘘」は自分の心を守るために不可欠なのでしょう。残酷な世界へのアンサー、それが「嘘」なのです。

 

TVシリーズ振り返り② 絆

一方で、チーム白鳩の関係は嘘だけでできているものではありません。

・6話では、スパイであるにもかかわらずベアトに素性を明かすドロシーに対して、ベアトは「私たちもうカバーじゃなくて本当の友達ですね」と言っている

・9話では、監視役であるにもかかわらず、チーム白鳩についてちせが「あの者たちに勝利してほしいと思っています」と語っている

・11話でプリンセス暗殺指令に対して「私は殺したくない」とドロシーが本音を吐露する

上記のように、チーム白鳩にはスパイのチームという枠組みを超えた「絆」(正直、この言葉には負の感情を抱いてしまうところがあるのですが、主題歌「LIES&TIES」に敬意を表してこの言葉を使います)が存在しています。

 

さらに重要なことは、この物語において「絆」は「嘘」を壊すということです。

 

プリンセスが「女王となって、私たちを隔てているものをなくしたい」「壁を壊したい」と言っていますが、ここにおける「壁」という言葉こそが、「嘘がはびこる残酷な世界」を象徴しています。これは、単に物理的な壁ということではなく、人と人の心を隔てているという意味での精神的なものも含めた「壁」です。

 

そして、「女王となって壁を壊す」というのはアンジェとの約束、「絆」から生まれたものです。プリンセスはもともと本物のプリンセスではない、「嘘」のプリンセスでしたが、8話ではこの決意を語ったことを受けて「あなたはもう本物のプリンセスよ」とアンジェに言われます。「嘘」も「絆」から生まれたものならば本物になるのです。

 

アンジェも、11話~12話でプリンセスを守るためとはいえ仲間に嘘をついて暴走しますが、結局は仲間を頼ることでプリンセスを助けることに成功し、最後にはプリンセスが「あなたの心の壁も壊して、みんなの前で笑える日が来るまで、絶対に離れない」と言っています。「心の壁」というのは、本心を話さず嘘をつくところであることは言うまでもありません。

 

チーム白鳩も、「嘘」に従えばプリンセスを暗殺するのが正解でしたが、最終的には「絆」を優先し、プリンセスを救い出したところで物語は幕を閉じます。嘘がはびこる残酷な世界の中で、異なる価値観に基づく選択をしたチーム白鳩は、作中でも触れられた「ノアの箱舟」で放たれた鳩のごとく、混沌とした世界の中で一筋の希望となるでしょう。

 

プリンセス・プリンシパル」は、「絆」が「嘘」という「壁」を壊す物語であるのです。

 

 

ビショップの壁が壊されるとき

さて、TVシリーズの振り返りが終わったところで、劇場版第1章の物語について考察してみます。

 

一般には、非業の死を遂げるビショップ、チーム白鳩に迫る危機、どうなる?という見方になるところでしょうが、上記のようなTVシリーズの見方に従うと、違った面が浮き彫りになってきます。

 

まず触れておきたいのは、ビショップというキャラクターです。王室内にいるコントロールのスパイでありながら、コントロール側の情報を「雇い主」に売っていたという「嘘」の象徴のようなキャラクターです。

 

プリンセス・プリンシパル Crown Handler 第1章」は、まず第一に、この「嘘」の象徴のようなビショップの「心の壁」が壊れる物語である、と言えます。

 

このビショップが共和国の情報を売っていたことをアンジェたちに見抜かれた後、王室から逃亡するときのシーンがまさに「心の壁」が壊れる場面として印象的です。それまでのスパイとしての厳格な態度は消え、柔和な口調そのもので「嘘をつくことに疲れた」とビショップは語ります。このあたり、飛田展男さんの演技も光っています。

 

プリンセスに対しては、「あなたにお仕えできたことは私の誉れ」と本音で語りますが、これはよく考えれば奇妙なことです。ビショップの「侍従長」としての姿は「嘘」であり、真の姿はスパイであるからです。それなのになぜこのような語りをするのでしょうか。

 

それは、やはりTVシリーズと同様、「絆」から生まれた嘘であれば本物になるからです。プリンセスに仕えるにあたっては真に敬愛の念を抱き、プリンセスとビショップの間には主従としての「絆」があったのでしょう。それは紛れもなく本物であったのです。ビショップが逃亡するときにプリンセスが自ら望んで見送りに来たことからも、プリンセスにビショップを慕う心があったことが読み取れます。

 

一方で、ビショップは逃亡に際し、思い出の菓子をアンジェから受け取ります(この菓子の意味、1周目では気づかないですよね)。この菓子から、ビショップはアンジェが持つ彼自身への親愛の情を感じ取ったことでしょう。アンジェに対しても「10年ぶりにお会いできてうれしかったですよ、シャーロット殿下」と語り、直後に非業の死を遂げるに際して「嘘をつき続けるとあなたもこうなる」と絞り出すように言います。それまでの「嘘」をつき続けた自身を否定する言葉です。非業の死に見えますが、プリンセスとの「絆」、アンジェとの「絆」によってビショップの心の壁が完全に取り払われたシーンであるという意味では、幸せな最期であるとも言えるでしょう。

 

アンジェの壁が壊されるとき

この劇場版を鑑賞して第二に目につくのは、TVシリーズ最終回におけるプリンセスの言葉どおり、プリンセスをはじめとするチーム白鳩の面々がアンジェの「心の壁」を壊していることです。

 

今回も、ビショップにプリンセスとの入れ替わりが見破られたことをアンジェは一人抱え込もうとしますが、「何もない」という嘘をプリンセスにあっさり見抜かれ、チーム白鳩にこのことを打ち明けます。ここで、プリンセスだけではなく、ドロシーもアンジェの様子がおかしいことに気づいていることにも注目すべきです。「絆」が「嘘」を壊すのです。

 

また、アンジェは当初、ビショップに対しても本音を隠してあくまでスパイとして接します。「10年ぶりにお会いできてうれしかったですよ、シャーロット殿下」とビショップに語り掛けられても、「私はもう……」とこぼすだけで、本心から応答しませんでしたが、ビショップが撃たれた瞬間、それまでの「ビショップ」という呼び方から「ウィンストンさん」と呼び方を変え、最後のシーンでは思い出の菓子を見ながら、ビショップがいなくなったことについて「寂しい」という心情を吐露します。

 

嘘をつき、本心を語らなかったTVシリーズから比べると、アンジェの心の壁も「絆」によって確実に壊されたと言えるでしょう。

 

おわりに~壁は壊れるのか~

以上のように、「プリンセス・プリンシパル Crown Handler 第1章」は、ビショップとアンジェ、2人の「嘘」という心の壁が壊れる物語でした。TVシリーズ最終話におけるプリンセスのセリフどおりの展開になったわけで、この作品がTVシリーズの続編として素晴らしい理由はここにあります。

 

では、第2章以降はどうなるのでしょうか。

 

もちろん、プリンセスが誓ったとおり、物理的なロンドンの壁だけではなく、あらゆる人々を隔てている心の壁が壊されることを、今後期待するところです。

 

しかし、もっと具体的なことを言っておくと、チーム白鳩の面々がお互いに秘密を明かすときが来てほしいと思います。ここまでの物語を通じて高まったチーム白鳩の「絆」であれば、嘘などつく必要がない日が来ると信じています。

 

さらにもう一歩踏み込むと、プリンセスがチーム白鳩だけでなく、全国民に正体を明かすときが、真に「壁」が壊されるときであるでしょう。

 

TVシリーズでは、アンジェだけでなく、イングウェイに正体を明かしても、プリンセスは真のプリンセスであると認められ、さらに今回の劇場版では、正体を知っているビショップが「立派なプリンセス」としてプリンセスのことを認めていました。絆から生まれた嘘は本物になるのです。

 

プリンセスの正体が全国民に明かされても、敬愛すべき人物としてプリンセスが国民、いや世界の人々から慕われる……そんな日が描かれることを思い浮かべるのは、夢想でしょうか。

 

世界から「壁」がなくなることを願ってやみません。

 

ここまでお読みくださりありがとうございました。

「私になる」ということ~ジュブナイルSFの金字塔「放課後のプレアデス」を読解する~

寄り添うように輝く星も、本当は、一つひとつが、何光年も遠く離れています。何もない空で一人輝きながら、みんな、同じように星たちを見上げているのかもしれません。その輝きが、いつか誰かに伝わるって信じながら。今日の予報は流星雨。こんな夜は、星空を見上げて、肩を寄せ合って、ささやくような星たちの輝きに、そっと耳を傾けてみませんか。寄り添うように輝く、星たちに混ざりながら。

 

2015年4月から放送されたTVアニメ「放課後のプレアデス」。

f:id:mitsubakaidou:20201122163906j:plain

放送当時、私はこのアニメを観て、すっかり心を奪われてしまいました。このアニメのことが好きなあまり、ブルーレイを全巻そろえた上に、ブルーレイボックスまで買いました。新宿ロフトプラスワンで行われたスタッフトークイベントに参加したのもよい思い出です。
しかし、なぜこのアニメを好きなのかは、ずっとうまく説明できないままでした。大好きなのは確かなのですが、このアニメに込められているものが大きすぎて、それをうまく消化できていないような感覚が、絶えずつきまとっていたのです。このアニメに込められているものが10あるとすれば、自分の腑に落ちているのはせいぜい1か2くらいなのではないか。そんな思いを抱えたまま、いつしかこのアニメを観ることはなくなり、5年の月日が過ぎました。
転機は、5月にこの記事を書いたことです。

 

tsukimisouanime.hatenablog.com

 

アニメ「Re:ステージ!ドリームデイズ♪(略称リステDD)」について書いた考察記事です。この記事を書いた後、私は「放課後のプレアデス」を見て、その素晴らしさを語ってみたい衝動にかられました。

それがなぜなのかは、自分でもわかりません。あとから考えると、この2作品の底に共通して流れている精神性のようなものを、なかば無意識的に読み取っていたのかもしれません。

ともかく、私は「放課後のプレアデス」を数年ぶりに観て、自分がこのアニメの何にこれほど惹かれているのかを、どうにか言語化してみることにしました。今年、2020年はちょうど放送5周年でもありました。この記事を目にされた方がこのアニメを知ったり、思い出したりするきっかけになれば、これほどうれしいことはありません。

 

さて、このアニメの素晴らしさは、「変わる」ことによって「私になる」という物語性にあります。

 

目次

 

「変わりたい」という祈り

放課後のプレアデス」という物語の出発点となるのが、少女たちの「変わりたい」という願いです。

主人公のすばるは、自己肯定感が低い少女として描かれます。1話でみなとと出会う場面では、

私、いつも要領悪くて、友達からもよく鈍くさいって言われるんです。

と口にします。*1

続けて、流星雨の観測にみなとを誘いますが、「なんで?」とみなとに問い返されたことで、拒絶されたように感じ、誘うことを諦めてしまいます。

このあと、

ああ~もう~恥ずかしい~!

と頭を抱える姿がいとおしいです。

さて、すばるは魔法使いに変身したあおいたちと出会います。

あおいちゃん、どうしてこんなことしてるの?

と問うすばるに、あおいは

変わりたかったんだ。私は、変われなかったから。すばるは違うのか?すばるは、変われたんじゃないのか?

と答えます。

よくわかんないけど、だったらそれ、きっと違う私だよ。

変われるかな

 とすばる。

すばるもあおいも、自分に自信が持てず、変わりたいという願いを胸に秘めていたのです。変われるかな、という言い方を踏まえると、達成する確信の持てない願いであり、その点、祈りといった方がいいかもしれません。*2

 

想いを抑えず、言葉にする

では、この変わりたいという祈りは、どうやって達成されるのでしょうか。それは、「想いを抑えず、言葉にする」ことです。

1話では、魔法使いになって宇宙船のかけらを集めることに反対するあおいに対し、すばるは

私、やってみるよ

あおいちゃんにできるなら、きっと私にもできるよ!

とはっきり言います。

f:id:mitsubakaidou:20201122164001j:plain

結果として、すばるたち5人は、今まで手にしたことのなかった宇宙船のかけらを手にすることができ、さらにすばるは、冒頭では見ることのできなかった流星雨を見ることができました。

 

さらに2話では、

私ともう一度、飛んで!

と、あおいにすばるが言ったことによって、二人は仲直りします(2話については、後ほど詳しく見ていきます)。

 

3話では、

足手まといにしかならないなら、私、みんなと一緒にいちゃいけないんじゃないかって

とすばるが迷いますが、最後には、

私がうまく飛べなかったら遅くまで付き合ってくれるし、みんなとっても優しいよ。出来損ないなんかじゃない!みんな優しい。私や、宇宙人さんたちのために一生懸命になってくれて、……私みんなといたい!みんなみたいになりたい!

私うれしいよ。あおいちゃんと一緒に居られて、とってもうれしいよ!

と、想いをを言葉にします。結果として、

私たちだってすばると何も変わらないんだ。一緒だよ。だから、私もうれしいんだ!

と、あおいから言ってもらうことができました。

 

私は私

一方で、この「変わりたい」という「想い」を「言葉にする」ことを支えるのが、「変わっても、私は私である」という感覚です。

このことが色濃く表現されているのが2話です。順番に筋を追っていきます。

すばるにあおいがいちご牛乳を渡し、

すばる、これ好きだろ?

と言ったのち、慌てて

違った?

と聞き返します。すばるとあおいはもともといた世界が違うため、正確には「すばるの知らないあおい」と「あおいの知らないすばる」なのです。 

このやりとりののち、すばるは逃げ出してしまいます。逃げた先には、いつもの温室とみなとが待っています。

「 久しぶりに会った友達となんだかうまくいかない」

という言葉で表現されたすばるの悩みに対し、

変わってほしくないんだね。君の知らないうちに、君の知ってる人が、君の知らない人に変わるのが嫌?それとも、変わりたくないのは君の方?

 とみなとは返します。

わからないと応じるすばるに、みなとはすばるの髪のくせを「角」と呼び、「かっこいいね」と言います*3*4。さらにみなとは続けます。

 変わりたいと思ったって、そう簡単には変われないよ。君はどう?

これに「無理です」と答えるすばるの髪のくせが、抑えても治りません。「私は私である」ことを象徴するシーンです。みなとは畳みかけます。

君の友達だってそうなんじゃないかな。ね、だったらさ。なればいいんじゃないかな、友達に。

これを受けて、すばるはあおいと話すことを決断します。

私がいちご牛乳好きなことも おぼえてくれてた。私、うれしくてちょっと泣いちゃった。

これにあおいが、

やっぱりすばるは泣き虫だな

と返したことによって、ぎくしゃくしていた二人の仲は戻ります。想いを言葉にすればよいということですね。この後のシーンで、二人はお互いに、

やっぱりお前は私の知ってるすばるだよ

あおいちゃんも

と言い合います。

f:id:mitsubakaidou:20201122164204j:plain

世界は違っても、「すばるはすばる」「あおいはあおい」ということを確認し合うシーンであると言えるでしょう。このあと、星めぐりの歌に合わせてかけらを捕まえるのもよいですね。

 

「そう簡単に変われない」「私は私」ということは、一見すると「変わりたい」という想いと矛盾するように思えます。しかし、そうではありません。「変わる」ことによって、別人になってしまうのだとしたら、「変わりたい」と思うことが難しくなってしまいます。「変わっても、私は私である」という安心感があるから、「変わりたい」と思うことができるのです。

私は私である」という感覚が、すばるにとってのあおい、あおいにとってのすばるという、他者からの承認によって獲得されているのも注目すべきであり、後述します。

さて、「変わっても、私は私である」という確信を得たすばるとあおいは、「変わりたい」という想いを強めていきます。しかし、「私は私でしかない」のであれば、なぜ「変わる」必要があるのでしょうか。

それは、「何者でもない」からです。詳しく見ていきましょう。

 

「何者でもない」ということ

この「何者でもない」ということが描かれるのは3話からです。

僕が協力者として君たちを選んだのは、君たちが可能性の塊だからだ。君たちは、様々な可能性が重なり合ったまま、まだ何者にも確定していない、どっちつかずの存在だ。子供でもないが、大人でもない。そして、まだ何者でもない、あるいはなろうとしない、幼い心のまま大人に近づいた、そんな矛盾した存在が君たちだ。

これを聞いてひかるが言います。

ポンコツだ。聞こえはいいけど、要は私たちって何者でもないポンコツってことだよね

すばるも、エンジニアの父が持ち帰った規格外品に自らを重ねて、

不良品じゃいくら集まったって、なんにもできないよ

と涙を流します。このアニメの、こういう繊細さが大好きなんですよね。

みなとにも、

きっと私は、私の可能性の中で、一番何者でもない私なんだ。きっとそうだ。だから選ばれたんだ。なにも選べない私が……。

と話します。

この、「何者でもない」ということは、どういうことなのでしょうか。

すばるは「なにも選べない」と表現していますが、もう少し詳しく定義すると、「実現しなかった可能性に心を砕き、いつまでも心の奥にしまっておくこと」です*5

実現しなかった可能性とは、ひかるにとっては、「自分が音符を書き込んだことによってできた、父が作った曲を聴くこと」であり、いつきにとっては、「おてんばな自分の思うままに行動すること」であり、ななこにとっては、「両親の離婚に伴い離れ離れになった弟に、自分の想いを伝える」ことです。

 

この「何者でもない」という心の葛藤は、前述したように「想いを言葉に」して(私みんなといたい!みんなみたいになりたい!)「変わりたい」という祈りを達成することによって、解消します。

現実の君たちが、何者でもなければないほど、僕はその可能性を君たちの力に変える。それがいま、君たちに地球や宇宙を肌で感じさせているんだ。生まれ落ちた瞬間から、何の可能性も選択肢も持たないものもたくさいんいる。なのに、君たちと出会えた僕は、とても幸運だ!

というプレアデス星人のセリフ、さらには

人間は部品とは違うよ。たった一つの形に決まらなきゃいけないなんてこともない。そもそもすばるは、まだ何の形にもなっていないじゃないか。だから、悲しいことなんてない。

というすばるの父のセリフで3話は幕を閉じます。

「なんにもないならなんにでもなれるはず」というOPにあるとおりで、「何者でもない」がゆえに、「変わりたい」と思う、「変わる」ことができる、ということが読み取れます。自己肯定感が低いゆえに、「何者でもない」ことを「不良品」「ポンコツ」と悲観していたすばるたちでしたが、「何者でもない」ことを肯定することができました。

なぜこうなったのでしょうか。それは、「他者による承認」があったからです。

 

他者による承認

3話ラストのすばるとあおいのやりとりを再掲します。

すばる「 私がうまく飛べなかったら遅くまで付き合ってくれるし、みんなとっても優しいよ。出来損ないなんかじゃない!みんな優しい。私や、宇宙人さんたちのために一生懸命になってくれて、……私みんなといたい!みんなみたいになりたい!」
「私うれしいよ。あおいちゃんと一緒に居られて、とってもうれしいよ!」

あおい「私たちだってすばると何も変わらないんだ。一緒だよ。だから、私もうれしいんだ!」

f:id:mitsubakaidou:20201122164343j:plain

このやりとりには、どのような意味があるのでしょうか。そもそもすばるは、

足手まといにしかならないなら、私、みんなと一緒にいちゃいけないんじゃないかって

という葛藤を抱えていました。この葛藤が解決したのは、ひとつには前述したように「みんなといたい」「あおいちゃんと一緒に居られてうれしい」という「想いを言葉に」したことがきっかけですが、その結果として、「私たちだってすばると一緒に居られてうれしい」という「他者による承認」が得られたからです。

振り返ると、2話でも「すばるはすばる」「あおいはあおい」という感覚を、自分で認めるのではなくて、お互いに承認することによって確固たるものにしていました。「想いを言葉にする」結果として「変わった」かどうかは、自分では判断できません。想いを言葉にする結果として、他者による承認が不可欠なのです。

アイデンティティ」という概念を考えてみるとわかりやすいでしょう。「私が私である」という意識は、社会から認められることによって確立するのです。*6

 

さて、「放課後のプレアデス」という物語は、前半1~6話と、後半7~12話に分けられますが、さらに前半を1~3話の第一部と4~6話の第二部に分けられます。第一部の1~3話で、物語に必要なキーワードが出そろいました。「何者でもない」がゆえに、「変わりたい」という祈り(WISH)を抱く。変わりたいという祈りは、「私は私」であるという感覚によって支えられており、「想いを言葉に」して「他者による承認」を得ることで達成されるのです。

第2部からは、すばるだけでなく、ひかるやいつきがこの過程をたどっていきます。

 

想いを言葉にする~ひかるの場合~

ひかるの願いは、「誰もしたことないことをする」ことです。

だってこんなのだれもやったことないよ、面白そうじゃん

4話では、幼少期に父が作曲している譜面にソの音符を書き込んでしまったが、その曲を聴くことができなかったというひかるの葛藤が描かれます。曲に音符を書き込んだことは、「誰もしたことないこと」ですが、その思いにふたをしたまま、ひかるはここまで生きてきたのでしょう。「何者でもない」ということですね。

すばるからひかるの話を聞いたみなとが、

君は人がいいな。言葉なんか信じてる

すばるは自分の気持ちをそのまま言葉にできる?

自分でも気づかないうちに、鍵をかけている扉もある

 と語るのが、まさにひかるが「何者でもない」ことを表現しています。「鍵をかけている扉」が、「想いを言葉にする」ことの対比的な表現として秀逸ですね。

ひかる自身も、自身が「何者でもない」ことを語ります。

かっこつけたこと言ったって、本当はなんだって中途半端にしかできないんだ。だって、お父さんの作った曲だって、私は最後まで聴く勇気もないのに。会長の言う通り、私は誰よりも何者でもない。資格は十分だよ。

怖くなった。私の書いた一小節が、お父さんを困らせちゃうんじゃないかって。そう思ったら怖くてたまらなくなって。私はその曲を、最後まで聴けなかったんだ。

そうだよ。知るのが怖いんだ。私は……

そんなひかるが、「想いを言葉に」し始めます。一歩目は、書き置きにその日の自分の行き先として「月!」と書いたことです。ここでソの音が鳴るのが天才的な演出なんだよなあ……。これを見たひかるの母が

あの子が今まで、私たちに嘘ついたことある?

と言うのも、みなとの「言葉なんか信じてる」と対比になっていて、深いですね。これを受けて、月にいるひかるに演奏を届けようと両親は考え、父の演奏によって、ひかるは曲を聴くことができました。

迷惑なんかじゃないよ、小さいひかるちゃんのしたこと。だからこうして弾いてる、聴かせようとしてる。

とすばるが言います。他者による承認ですね。

最後までなんて聴けないよ。だって、聴いちゃったら、私泣くしかないってわかってる。だけど、そんなとこ誰にも見られたくない。

曲を聴いたひかるは涙を流します。涙が月に散らばっていく演出が美しすぎます。

f:id:mitsubakaidou:20201122164421j:plain

涙という形で想いを表現したひかるに対し、すばるたち仲間は笑顔を向けます。他者による承認です。

ななこ「圧倒的じゃないか」

あおい「泣くほどうれしいことなんてそうないよな」

このあたり、セリフの一言一言も素敵です。この4話が神回と呼ばれるるゆえんです。

 

想いを言葉にする~いつきの場合~

5話では、いつきの葛藤が描かれます。いつきの願いは「空を飛ぶこと」です。しかし、そんな自らのおてんばが原因となった幼少期の事故で家族を悲しませてしまい、それがトラウマとなり、いつきは自分の想いにふたをして生きてきました。やはり、「何者でもない」ということですね。

学園祭ですばるたちのクラスは劇をやることになりますが、いつきはお姫様役に選ばれます。劇のあらすじはこうです。

――「こうなればいい」お姫様の言葉が耳に入った途端、どんなことも現実になってしまう。その力を恐れた王様とお妃様によって、お姫様は塔の中に閉じ込められる。あるとき、その塔に遠い国の王子様がやってくる。閉ざされた扉の中でお姫様は「私は消えてしまいたい」と言い、落雷とともにいなくなってしまう――

劇中のお姫様が、想いにふたをしているいつきとシンクロしているのがわかります。なお、お姫様が言ったことは「自己否定という呪い」であり、のちのみなとと重なるのですが、これについては後述します。この後の場面で、すばるが「みなとくん、お姫様みたい」と言っているのが面白いですね。

余談ですが、すばるが教室をのぞいた時にいつきが着替え中だったのって、王子様の服を着ようとしていたのでしょうね。

すばると一緒に宇宙へ飛んだいつきは、自らの過去を語ります。

お願いなんてないわ。私、そういうこと考えないようにしてるの。自分のしたいことをしたって、誰かに迷惑かけるだけだもの。私は、わたしのわがままで、誰かを傷つけたくないから。

私のわがままが、みんなを傷つけた。この傷は、それを戒める罰だって思った。

想いにふたをする心情の動きと重なって、事故でできた傷のあるおでこを隠す動きが繰り返されるのが象徴的です。おでこの傷が、そのまま心の傷を表しているとみることができます。

f:id:mitsubakaidou:20201122164454j:plain

だからこそ、いつきがおでこを隠そうともせずかけらを捕まえようとする動きが、幼少期に木から落ちた時の帽子を捕まえようとする動きと重なるのが、いい演出です。見ていて私は、天才的だなあ……とつぶやいていました。

かけらを捕まえた後、

みんなに迷惑かけちゃった

とこぼすいつきに対し、すばるは言います。

迷惑なんかじゃない、ううん、迷惑だっていいよ!

あおい、ひかる、ななこも、

私たちにだったらいくら迷惑かけたっていいよ

太っ腹

まあ、お互い様でしょ

 と次々に口にします。「他者による承認」です。

そして、すばるは

傷、言われなかったら全然わからないね

と声をかけ、いつきは

私、気にしすぎてたのかな

と応じました。トラウマが解消した瞬間です。

他者による承認」を受けて「想いを言葉に」できるようになったいつきは、「劇で王子様役をやりたい」という希望を口にし、叶えることができました。願いを口にすることが許されず、「消えてしまいたい」と姫が口にする、という劇のエピソードがハッピーエンドへと改変されたことと見事に同期しており、味わい深い場面になったものです。

どうか、この手を取っていただけますか。それが私の願いです。

あなたが心から望むなら、それは私の願いでもあるでしょう。

 劇を終えたいつきは、観客の中に、例の事故で悲しませた兄の笑顔を発見します。見ていて私は、不覚にも涙を抑えられなくなってしまいました。なんていいシーンなのでしょうか……。

 

さて、これを受けた次の6話はななこ回かと思いきや、すばるとみなとの変化にスポットが当たる回です。

温室でせき込むみなとから、みなとを置いて温室を出るように言われ、「こんなの私、決められないよ」とすばるは言います。これを受けてみなとから「お守り」として、温室に植わっている、つぼみのままの花を手渡され、温室を出ることを決断します。

すばるが3話で

決められないだけです

と言っていたことを思えば、大きな変化です。「想いを言葉に」することを知って、すばるは変わったのです。

みなととともにあり、咲くことのなかった温室の花が咲きます。「この花は咲いてはいけないんだ」と語っていたことを考えれば、これもまた大きな変化です。「僕も変われるかな」とつぶやくみなと。すばるの変化が描かれるとともに、止まっていたみなとの時が動き始める、シリーズ後半への導入にもなっている回です。

 

さて、シリーズ後半の7話は、すばるの変化をあおいが感じ取るシーンから始まります。

 

「変わりたい」を実現したすばるとあおい

6話では、すばるがあおいをかばうシーンがありました。2話で「すばるは私が守る」とあおいが言っていたことを踏まえると、二人の関係性が逆転しています。そして7話では、あおいがこの6話のシーンを回想し、複雑な表情を浮かべます。

なぜ、あおいはこのような表情を浮かべるのでしょうか。

それには、過去にすばるとあおいの間で起こった出来事が関係しており、すばるが変化することを良く思っていないからです。詳しいことは、後で明らかにされます。

 

元気がない様子のすばるにあおいはいちご牛乳を渡し、

これ飲んで元気出せ

と話しかけます。何気ないシーンですが、2話で「やっぱりお前は私の知ってるすばる」であることの象徴だったいちご牛乳を渡している点が重要です。あおいは、すばるの変化に不安になり、すばるが自分の知っているすばるであることを、意識的にせよ無意識的にせよ再確認するために、いちご牛乳を渡したとみることができます。

さらにあおいは、

すばるがわーわー騒いでないと、こっちが調子狂うんだよな

と話し、

すばるのことだから、また何かなくしものでもしたんだろ。一緒に探すからさ。一人で抱え込むなよ。

と言いながら、すばるの頭に手を置きます。すばるの頭に手を置くのは、2話で「すばるは私が守る」と言いながらしている動作でもあり、これも、自分が知っているままのすばるでいてほしいという意思表示でしょう。

f:id:mitsubakaidou:20201122164624j:plain

すばるはみなとのことをあおいに話しますが、みなとのことをすばるが大事に思っているのを感じ取ったあおいは、

なんで黙ってたんだよ。言ってくれたらよかったのに

と表情を曇らせ、すばるを置いて去ってしまいます。

変わりたいって思ったんだ。だからここにいるはずなのに。結局同じことを繰り返してる。どうして私は……

 

さて、この場面の後は、かけらを捕まえる場面になります。すばるがあおいの手を握ってあおいを助けようとしますが、あおいはその手を払いのけてしまいます。「あおいがすばるを助ける」という関係が、「すばるがあおいを助ける」という関係へと変化することを拒否したのです。2話で「今度またあいつが来ても、すばるは私が守る」とあおいが言っていたことが思い出されます。

自分でもわかってる。このままじゃダメだって。変わりたいって思ってるのに……

ここにおいて、過去に合った出来事が明かされ、あおいがなぜこのような態度をとっていたのかがわかります。「あおいに黙ったまま、すばるが違う中学校に行ってしまった」という経験を、あおいは持っていたのです。あおいが知らない間に、すばるが自分の知っているすばるではなくなってしまい、その結果として、自分が置いて行かれてしまった(とあおいは思っている)。だからこそ、この運命線でも、あおいはすばるが変化することを拒否していたのです。

しかし、すばるの変化を拒否するだけでは、結局過去の自分と同じであり、それを受けての「結局同じことを繰り返してる」「このままじゃダメだって」なのでしょう。

 

葛藤するすばるとあおい。二人を救ったのは、ほかの3人の呼びかけでした。

ひかる「ここまで来て迷うことなんてあるのか!」

いつき「二人なら、わかってるはずだわ!」

ななこ「寄り添う気持ちで運気上昇」

ななこの謎の一言はさておき、「他者による承認」です。

これを受けて二人は再び飛びます。角マントの攻撃を受けますが、今度はあおいがすばるの手を取って、すばるを助けます。

いつでも、どこにいても、すばるがどんなに変わっても、変わらない大切なものは、ちゃんとここにある。

いつだってあおいちゃんは、私を助けてくれる。だから私も変わらなきゃ。いつかあおいちゃんを守れるくらいに。

 

私たちは、変わっていける。

 

すばるに助けられてばかりじゃいられないからな

私だって。あ、でもあおいちゃんと一緒にいるのは、ずっと好きだよ。

これを聞いて、あおいがすばるの頭をなでようとしてやめるの、尊すぎません??

「あおいがすばるを助ける」という関係性が変化してしまうことを拒否していたあおいが、すばるの変化を認めることができたのです。あおいも「変わる」ことができたのです。こんなシーンがあるでしょうか???あれ?目から汗が……

あおいは言います。

わかってる。どこにいてもどんなに変わっても、すばるはすばるだし、私は私だ!

これを見て、ななこは「二人とも変わった」と言います。2話では「やっぱりお前は私の知ってるすばるだ」だったのが、ここでは「自分の知らない変わったすばるでも、すばるはすばるだ」に変化していることに注目すべきです。「私は私」であるがゆえに、「変わりたい」という想いを肯定し、実現することができたのです。

 f:id:mitsubakaidou:20201122164706j:plain

この後、別の運命線のお互いからもらったキーホルダーを見せ合い、すばるとあおいは言います。

あおい「私たち、置いて行かれたわけじゃないんだ。」

すばる「そうだよ。私たち二人とも、大切な友達から宝物をもらったんだよ」

他者による承認」です。

 

「変わりたい」という願いを実現したすばるは、みなとに対して「想いを言葉に」します。この直前、あおいからもらったキーホルダーを触るのが、尊すぎます。

その恰好、やっぱりちょっと変です。あと、これ。好きだよね。

すばるはこう言って、いちご牛乳を差し出します(もちろん、「みなとはみなとだ」という意思表示です)。

みなと「君って、人違いだとか勘違いとか考えないわけ?僕は君の知らない僕に変わったかもしれない。ほとんど別人みたいにさ」

すばる「うん、そうかもしれない。でも私、友達に教えてもらったの。だから、みなと君はみなと君だよ

みなと「……君はそうやってまた、どこからか扉の鍵を見つけてくるんだね」

すばる「また会えたね、みなとくん!」

ここで花が映るのが、……「つぼみのまま、咲いてはいけない」とされていた、みなとがすばるに渡した花が咲いている、その様子が映るのが、すばるが変わったことを象徴しているわけです。……はあ~~~。天才かよ。

 

思い出は消えない

さて、4話がひかる回、5話がいつき回と来て、ななこ回は?と思ったところで、6,7話は、すばるとあおいの変化を描きました。なぜ、ななこ回は後回しになったのでしょうか。

おそらく、「思い出は消えない」という、新しい要素を描きたかったからではないでしょうか。「私は私」がキーワードであるということは、今まで見てきたとおりですが、それを支える要素として、この「思い出は消えない」ということが挙げられます。

過去の思い出が積み重なって、「私」を形作るということですね。

 

8話がななこ回です。太陽系最外縁部のかけらを捕まえるために、一人旅立つななこ。旅立った直後、

結局は、だれだってみんなひとりだから

とつぶやきます。

なぜこのようなつぶやきをしたのかは、ななこの回想によって明かされます。

両親が離婚するときに、父のもとに残ったななこは、母についって行った弟と離れ離れになります。「お姉ちゃんも後から来る」という、両親の弟に対する嘘を、ななこも否定しませんでした。

大人は、嘘をつく。

私もあれが、嘘だってわかってた。約束が果たされる日は、来ない。

 

結局は、誰だってみんな一人だ。誰かをどんなに愛しても、いつかは一人に戻るんだ。

 これがななこの「何者でもない」です。

 かけらを発見したななこはほかの4人を呼ぼうとしますが、心から呼んでいなかったため届きません。

やっぱり私は一人が似合ってる

と、4人を呼ぶことを諦めたななこでしたが、惑星の誕生を見て、

皆も一緒だったら、楽しいのかな

想いを言葉にし、4人を呼ぶことに成功します。

弟に「思いを伝える」という実現しなかった可能性に心を砕きつつも、「誰だってみんな一人だ」と思いふたをし、弟に手紙を書いてこなかったななこ。しかし、プレアデス星人の姿は、弟の手紙に書かれた絵がもとになったものだったということが、ここにきて明かされます。ななこは弟と離れて一人になったわけではなく、ななこの記憶の中に弟は生き続けていたのです。ななこはプレアデス星人を抱きしめて呟きます。

一人になっても、みんなで一緒だった記憶は消えないんだ。思い出は、なくならない。

これに対し4人は、ななことの再会を喜ぶ声を掛け合います。他者による承認です。

かけらを確定させたななこは、強い思いにより、他の4人と別れる前の時間に戻ります。13歳の誕生日を迎えたななこは、プレゼントの万年筆とレターセットを使って、弟への手紙を書き始めます。蓋をしていた想いに向き合い、想いを言葉にすることで、ななこも「変わりたい」という想いを成し遂げることができました。

f:id:mitsubakaidou:20201122164748j:plain

観ていて涙が……毎回神回じゃないか、なんだこのアニメ……

 

呪い

さて、9話と10話は、みなとにスポットが当たります。ここまで「変わりたい」という「祈り」が描かれてきましたが、この「祈り」と対の関係にあるのが「呪い」です。

10話では、幼いみなとは実現することのなかった「可能性の結晶」に心を砕いていたことが描かれます。すばるたち5人と同じく、「何者でもない」ということですね。

しかし、みなとはすばるたちとは違い、「変わりたい」という想いを言葉にすることはなく、こう言い放ちます。

僕はこれ(エンジンのかけら)を使って違う世界を探す。

この世界が僕を受け入れないなら、僕の方から捨てるんだ。僕と同じように、ここではろくな可能性を与えられなかった存在(可能性の結晶)。みんなを連れていく。この世界もすっきりするだろう。

僕は、消える

これこそが、「変わりたい」という「祈り」と対極にある、自己否定という呪いです。このような思いをみなとが描いたきっかけは回想で描かれます。重い病気で寝たきりという自分に絶望したみなとは、

この世界に可能性がないなら、過去から可能性を選びなおせばいいんだ

と吐き捨てるように言います。

これまですばるたち5人は、実現しなかった可能性に心を砕きつつも、「私は私」であることを受け入れ、未来を志向する「変わりたい」という願いを抱いてきました。これに対しみなとのこの思想は、過去向きの自己否定という呪いなのです。

君だって僕と同じ、自分を呪ってる。心のどこかで君は、このままかけら集めが終わらなければいいと、本当はそう願っているんじゃないのか。それが、君自身への呪いだ。

これを聞いたすばるは、

私、何も変われてない

と涙します。これを受けて11話では、すばるが魔法使いに変身できなくなってしまいます。会長はこの事態を以下のように解説します。

可能性の確定していない者、何者でもない者たちだけが魔法を使えるんだ。魔法を使えなくなったのは、すばるが何者かになってしまったからかもしれない。一度選んだ道は後戻りできないし、失った可能性は二度と戻らない。

これはどういうことでしょうか。

解釈の難しいところですが、私は以下のように考えます。これまですばるが使う魔法を支えてきたのは、「変わりたい」という願いです。それはここまで書いてきたように、達成されました。しかし、「このままかけら集めが終わらなければいい」という意識は、「変わりたくない」という現状維持の思いであり、「変わりたい」という願いとは対極にあるものです。ですから、この思いを自覚することで呪いとして作用し、すばるは変身できなくなったのでしょう。

それを自覚しているからこそ、すばるは父に「すばるも変わってるんだなって」と言われて、

私、ちっとも変われていないの

と涙を流します。この後のシーンで、「私は私」であることの象徴だったいちご牛乳がなくなってしまっているのが象徴的です。

この流れを変えたのは、他者による承認です。

私だって信じてる。会長がどう言ったって、すばるは変われるって

この一言をきっかけに、すばるはもう一度変身する可能性に挑み、それを実現しました。いちご牛乳も復活したのがやはり象徴的ですね。

 

一方で、すばるを置いてかけらを探しに行った4人ですが、かけらを見つけることができません。その原因を、

君たちが、心の奥底では、この宇宙に居続けたいと願っているともいえるかな

と会長は分析します。前述した呪いです。しかし、これを聞いても、4人は次々に「変わりたい」という祈りを口にします。

あおい「私は行くよ。地球を発つとき決めたんだ。かけらを手に入れて、必ず帰るって。 すばるが、信じて待ってくれてるから」

ななこ「私も行く。もう決めたことだから」

ひかる「この宇宙のおかげなんかじゃない。全部私たちが、自分の意志と自分の力でやったことだよ」

いつき「それに、今諦めたら、私たち変われないもの」

あおい「私たち、確かにずっとこのまま魔法使いでいられたら、って思ったこともあるよ。だけど私たち、変わりたいから魔法使いになったんだ。このままじゃ終われないよ」

 もう一度変身したすばるも合流し、同じ気持ちを口にします。

私、変わりたい

これを聞いた4人から他者による承認を受けて、すばるは

私、絶対あきらめないから!と決意します。

 

「私になる」ということ

最終話、すばるはブラックホールに落ちてこの宇宙から消えようとするみなとを連れ戻します。

「私はただ、今こうして触れているみなと君の温かさに、消えてほしくないだけなの。みなと君の中にある、優しさも、寂しさも、なかったことになんてしたくないの。宇宙を何度やり直しても、私のであったみなと君は、たった一人だよ」

ここにおいてみなとは、初めて他者による承認を受けたのです。

みなと「見ただろう。現実の僕は、君と言葉を交わすことさえできないかもしれない」

すばる「だけど、私たちは出会えたんだよ。出会っちゃったんだから、忘れたりしたくない、なかったことになんてできない」

思い出は消えないということですね。

すばる「みなと君の、本当の気持ちを教えてよ!」

みなと「何が欲しいとか、誰かといたいなんて、きちんと言葉にしたことないんだ」

すばる「だったら私が言う。私はみなと君と一緒にいたい。私がみなと君を幸せにする!」

 自分を呪ったみなとには想いを言葉にできなくても、「変わりたい」という願いを持つすばるにはそれができるのです。これによって、みなとの意思を変えることができました。

かけらを集めきった後、5人はみなとと共に原初の惑星に戻ります。

「ここからなら、どんな生き方を選びなおすことだってできるんだ。何になってもいい、どこからやり直してもいい。さあ、君たちは何を選ぶ?」

尋ねるみなとに、5人は手をつないで、答えを出します。

f:id:mitsubakaidou:20201122165054j:plain

いつき「私は」

ひかる「私は」

ななこ「私は」

すばる、あおい「私は」

すばる「無限の可能性なんて、壮大すぎてわからない」

いつき「想像できるのは、自分とそんなに変わらない女の子」

あおい「何の変哲もない、ありふれた女の子」

ななこ「ひかるみたいに、頭がよかったらいいな、とか」

ひかる「いつきみたいに、きれいな髪だったらいいな、とか」

いつき「ななこちゃんみたいに、マイペースでいられたらいいな、とか」

すばる「あおいちゃんみたいに、しっかりしたいとか」

あおい「すばるみたいに、まっすぐ素直でいられたら、って思うけど」

すばる「みんなをうらやましく思うのはきっと、困ったとき、落ち込んだとき、たくさん助けてもらったから」

いつき「完璧な誰かになりたいってことじゃなくて」

ひかる「みんながみんなだったから」

ななこ「私が、私だったから」

あおい「一緒にいられたあの時間」

すばる「だったら、私は私がいい。そしてそのときそばにいる人の、きれいなところ、いいところを、たくさん見つけてあげたい」

5人「私は、私になる」

「みんなみたいになりたい」と言っていたすばるをはじめ、自分に自信が持てず、「変わりたい」と願っていた少女たち。が、「私になる」という決断をした瞬間でした。見ていて涙を抑えられません。これほど美しいシーンがあるでしょうか。

ここにおいて、コペルニクス的転回が起こります。他者による承認を受けることで変わることを成し遂げるのではなく、他者を承認するために変わるということです。

他者による承認を受けた分、今度は他者を承認したいということですがが、そのためには、「私」は「私になる」必要があります。私は私であるから、他者に承認され、他者を承認できるのです。そして、「私になる」ということは、「私は私のまま変わらなくていい」という安易な現状維持ではありません。変わっても私は私であり、変わるからこそ「私のままである」ではなく、「私になる」ことができるのです。そして、変わったことの記憶はなくても大丈夫なのです。なぜなら、思い出は消えないからです。

すばる「こういうときって、なんて言ったらいいのかな」

いつき「きっと大丈夫。私に戻っても、みんなと出会って変われた私なんだもの」

ひかる「私も信じてるよ。自分とみんなを」

ななこ「ダンケ。グラッツェ。メルシー。謝謝。ありがとう。」

すばる「みんな、大好き!」

いつき「私も」

あおい「泣くなよすばる」

すばる「私たち変われたかな?」

ななこ「absolutely」

ひかる「どういう意味?」

ななこ「きっと。絶対。」

5人「うん!」

5人は変わりたいという祈りがかなったことを確認し合います。確かに変われたのです。だからこそ私になるのです。ああ、なんて美しいのだ……。見ていて涙が止まりませんでした。心の中では、このアニメに対する感謝の念が尽きませんでした。ありがとう、ありがとう……。

こうして5人は別れ、元の運命線に戻りました。すばるは、みなとと一緒に行くことを選びながら。

元の運命線に戻ったすばるは、この運命線のあおいに話しかけることができました。1話を見ればわかりますが、別の運命線であおいたち4人に出会う前はできていなかったことです。これはもちろん、すばるが変われたからこそ、できたことなのです。

宇宙の果てまで飛び、ブラックホールをひっくり返した末に得たものが、「話しかけることのできなかった友人と、話すことができるようになった」という変化。これが、このアニメを私が好きすぎるゆえんです。小さすぎる変化でしょうか。そんなことはありません。「変わりたい」という祈りを成し遂げること。一人の人間にとって、これほど大きなことはありません。

もともと流星雨を見るときに独りぼっちだったうえに、雨に降られてしまっていたすばるのもとに、今度は元の運命線のひかるやいつき、ななこも集まり、流星雨をみんなで見ている場面で、物語は幕を閉じます。

f:id:mitsubakaidou:20201122165210j:plain

変わることができた少女たちは、きっとこれからも変わり続けて、私になっていくことでしょう。そして、今度はこの物語に触れた私たちが変わって、私になる番です。これからの人生で困ったとき、落ち込んだとき、このアニメがきっと私を助けてくれるでしょう。このアニメのことが大好きです。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

夜空に浮かぶ星たちは、独りぼっちの寂しさと、巡り会う喜びを繰り返して、長い時の中をすれ違っていきます。今日の予報は流星雨。星空を見上げていると、今はまだ出会えていない、どこかの誰かのことを、ふと思ってしまいます。その誰かも、同じようにこの星空を見上げていて、星たちは空から、そんな私たちの姿を、見守っていてくれるはずです。

待っててね!

 

*1:余談ですが、ここでの「友達」とは、あおいのことを想定して言っているのでしょうね。このあと、すばるのことを「足も遅いし動作もとろいし」とあおいが言っています。

*2:余談ですが、「放課後のプレアデス」の英語のタイトルがWISH UPON THE PLEIADESなのが素晴らしいですね。「変わりたい」という思いは、まさに"WISH"と表現するのがよいです

*3:このセリフは、もう一人のみなとが角マントの姿をとっているのと対応しているのが面白いですね

*4:さらに、ブルーレイボックス付属の特典小説を読むと、この髪型はあおいが作ったという過去が語られています。尊い……

*5:ブルーレイボックスに付属の特典小説「夢々のカケラ」では、「星」について、「人によってさまざまだけど、例えばそれは流れなかった涙だ。出されなかった手紙だ。普通は忘れられてしまう物なのに、君たちはいつまでもそれを大事に胸の内にしまいこんでいる。君たちはちょっと優しすぎるのさ。何者にもなれなかったものに心を砕いて自分を重ねてしまう」と、みなとの口によって語られています。

*6:「『自己』とは、内省によってみいだされる主観的自己であるよりは、社会集団のなかで自覚され、評価される社会的自己のことである。個人は共同体の固有の価値観に事故を同一化し、その中で様々な社会的役割を積極的に引き受けることによって自己を確立する」日本大百科全書より