月見草アニメ!

ブログ名は「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」という野村克也氏の名言からつけました。月見草のように、目立たないながらも良さがあるアニメやゲームについて、語ることを目指します。

「戦わない者」たちに感じる寂寞~勇者史外典感想・考察~

現在3期である「大満開の章」が放送中のTVアニメ「結城友奈は勇者である」。その外伝小説である「勇者史外典」が11月30日に発売されました。

1期の「結城友奈の章」放送時からのシリーズファンであり、外伝小説第一弾「乃木若葉は勇者である」も第二弾「楠芽吹は勇者である」も読んだ私としては、当然今回の「勇者史外典」も購入して読みました。

読後感としては、相変わらず朱白あおい氏の筆致が素晴らしかったです。登場人物の心理を巧みに描き、同時に勇者であるシリーズの世界観を深堀りする氏の手法は見事と言うほかありません。

しかし、素晴らしさを感じると同時に、ある種の寂しさのようなものが胸に去来しました。これはなぜなのでしょうか。

私が感じた寂しさのような感情は、「『勇者史外典』の登場人物が、戦わない人物である」ということからきているのではないかと考えるようになりました。どういうことか、詳しく書いていきます。

 

「勇者である」とはどういうことか

「勇者史外典」は、「上里ひなたは巫女である」「芙蓉友奈は勇者でない」「烏丸久美子は巫女でない」の3篇からなります。しかし、「上里ひなたは巫女である」は、上里ひなたを描くというよりは、安芸真鈴、花本美佳を含めた3人を描く形式となっています。したがって「勇者史外典」で人物の内面を深く描いているのは、実質的に「芙蓉友奈は勇者でない」「烏丸久美子は巫女でない」の2篇です。

今まで「勇者である」シリーズからすると、「勇者でない」「巫女でない」というタイトルの付け方は特異に感じます。しかし、このタイトルにこそ、「勇者史外典」の本質が表れています。

これは、単に登場キャラクターが特別な力を持った「勇者」「巫女」ではないということを意味するにとどまりません。「勇者である」ものと「勇者でない」「巫女でない」ものの違いとは、「戦うかどうか」、もっと詳しく言うと、単に物理的に戦うかどうかだけではなく、①自己の内面②体制の2つと戦うかどうか、であると言えます。①自己の内面を変化させる意志②体制への反発、の2つがあるかどうかであると言ってもいいでしょう。

 

結城友奈は勇者である」においては、友奈たち勇者部の面々が、それぞれ①の内面の変化を経験します。友奈は行き過ぎた自己犠牲精神を克服し、「無理せず自分も幸せであること」を学びました。東郷は壁を壊そうとしたり、一人で奉火祭の犠牲になろうとしたりした末に、自らの考えを改めます。風は妹の樹を巻き込んでしまった罪悪感と向き合い、樹は姉の背中を追う自分ではなく姉と並び立つ自分になろうとします。当初勇者部の面々となれ合うつもりはないと言い放っていた夏凛は、「大赦から派遣された勇者ではなく、勇者部の一員として戦う」ことを選びます。それぞれに、内面の葛藤と向き合って、結論を出していったのです。また、②についても、大赦が進めようとした神婚を止めたことをはじめ、勇者部は常に体制への懐疑の心を持っていました。

「乃木若葉は勇者である」においても同様です。①について、主人公である若葉は、当初多くの犠牲を出したバーテックスに報いを受けさせるという復讐のために戦っていましたが、やがて死者よりも、生者のために戦うことを選びます。②についても、郡千景に対する大赦の処遇に反発し、またバーテックスとの戦いの後も、未来の勇者たちのために戦いを続けます。

「楠芽吹は勇者である」の主人公である芽吹は、立場上は特別な力を使える勇者ではなく、量産型の「防人」と呼ばれる存在です。ですが、作品が「勇者である」というタイトルであるのは、芽吹が自身の内面と向き合い、変化していくからにほかなりません(①)。芽吹は当初、勇者になることを目指しますが、仲間を不要とするその独断的な思考が原因となって、勇者の選考で夏凛に敗れます。その後の芽吹は防人として過ごすうち、仲間の大切さに気付いていき、今までの頑なな人物に変化が生じることによって、仲間からは「勇者である」と認められます。それは、防人を使い捨ての存在とみなす大赦のやり方に反発し(②)、「犠牲ゼロ」という方針を貫いたからでした。最終的に芽吹は防人のままで、勇者になることはできませんでしたが、その内面は間違いなく「勇者である」と言えるでしょう。

 

柚木友奈は戦わない

さて、以上の点をを踏まえて「勇者史外典」を見ていきます。まず、「芙蓉友奈は勇者である」においてはどうでしょうか。作品タイトルは「芙蓉友奈は勇者である」ですが、実際に作品の語り手となっており、内面が描写されるのは柚木友奈です。

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まず、①の面から柚木を見てみます。柚木は、特別な存在につけられる「友奈」という自分の名前を嫌う人物として描かれます。「友奈」という名前を嫌うようになったのは、幼少期の出来事がきっかけでした。ミニバスケチームの選手として活躍していた柚木は、ある日出場した四国大会において、一方的な試合で一回戦負けという結果を味わいます。そのときに、「友奈」という名前のせいで実力以上に持ち上げられていたことに気づきます。柚木は以下のように語ります。

「私は友奈の名前を自分の力だと思い込んで、持て囃されて勘違いして……。恥ずかしかったし、悔しかった。友奈じゃない私は、特別な力なんてない、ただデカいだけのバカ女だ。自分がすごく醜い存在に思えた。今でもそう思ってる」

「私は……ずっと力が欲しいって思ってる。友奈って名前を恥ずかしくなく思えるように。たとえ名前のせいで過大評価を受けても、自分はこんなことが出来るんだって自信を持って言えるように……でも、私にはどう考えても、特別な力なんてないんだ」

この柚木の内面の葛藤は、最終的な場面で、乃木若葉や上里ひなたと出会い、勇者や巫女であった彼女たちも無力さに抗い続けたということを知ったことにより、一応の決着を見ます。

「上里様みたいな人でも、無力だなんて思うんですね……」

「ええ。人は常に自分の無力さを受け入れながら、それに抗って生きていくしかないんです。あなたたちの名前の由来となった高嶋友奈さんも、彼女の身近にいた私たちから見れば、自分の無力さに抗い続けた無力な人間の一人でした」

私は自分の無力さが許せなった。

高嶋友奈に比べて、何もできない自分が哀れだった。

でも、世界の英雄でさえ無力なら――

私は自分の無力さを許してあげられるだろう。

この『友奈』という名前を受け入れられるだろう。

ある意味では、柚木の成長、内面の変化と言えるでしょう。しかし、最後の2行が「私も無力さを受け入れて、それに抗い続けよう」ではなく、「無力さを許してあげられるだろう」で終わっていることに注目すべきです。その内面の変化が、自らの努力ではなく、「無力さを許してあげ」るという諦観によって達成されている点が、「勇者」と決定的に違います。自己の内面の葛藤との決着の付け方がそこで終わっている以上、これ以上の内面の変化は望めません。

②についても、柚木は「勇者」と決定的な差異を抱えています。クライマックスのシーンで、柚木は四国と外界を隔てる壁を登攀します。それは、②の体制への反発からでした。

私が命をかけて壁を超えるのは――

リリの願いを叶えてあげたいからと、

リリの無茶を止めたいからと、

この中途半端でやるせない時代への反抗のためだ。

世の不条理への反発だ。

しかし、柚木は自力で壁を越えることはできず、体制側となった若葉とひなたに壁の外を見せられるとともに、壁の外のことについて脅しを交えて口を封じられます。体制への反発は、体制の圧力に屈したのです。

芙蓉友奈と柚木の日常がこれまでと変わらずに続いていくことを予感させて、物語は幕を閉じます。内面の葛藤にも、体制にも抗うことをやめた柚木が、これから戦うことはないでしょう。

 

丸久美子は戦わない

もう一方の「烏丸久美子は巫女でない」はどうでしょう。

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まず①についてです。主人公の烏丸久美子は、「普通である」ことを極端に嫌う人物として描かれます。

「私は混沌とした状況の中に身を置くことが楽しい。その楽しみのためなら、なんでもやる」

「『予想通り』や『平穏』ということが怖いんだ。同じ日常や決まりきった出来事が繰り返されるということが、どうしようもなく怖い」

このように語る烏丸は、星屑の襲来を受けて安全な四国へ避難する人々を乗せたバスを運転しているにもかかわらず、四国へ向かうことを拒否します。

このような烏丸と対をなすのが、巫女である横手茉莉です。茉莉は、普通に生きることを幸せだと考える人物として描かれます。四国へ向かうことを拒否する烏丸と茉莉は対決します。

この対決に敗北した烏丸は四国へ向かうことを受け入れますが、受け入れたのは改心したからではなく、茉莉に左腕をペンで刺されからだという物理的な原因であることに注目すべきです。この点が、「勇者」と決定的に違います。

敗北した烏丸は茉莉にこう語ります。

「お前のことが羨ましいと言った。それは本心だ。普通に生きることを幸せだと思えるなら、それが一番なんだ。私は――お前のようになりたかった。お前のように、普通に生きることを幸せだと思える人間に」

自己の内面を変革したいと考えつつも、勇者たちとは違ってできなかった存在。それが烏丸久美子なのです。

②についてはどうでしょうか。烏丸は、茉莉を巫女として迎えに来たひなたに対し、茉莉の代わりに自分が巫女ということにしてほしいと頼みます。これも、「普通に生きることが幸せだと感じる茉莉に変わってほしくない」「自分が楽しみたい」という、烏丸の内面が原因です。

頼みは聞き入れられ、代償として大社に入った烏丸はひなたに弱みを握られ、絶対に服従しなくてはならない状況に追い込まれますが、烏丸はそれを楽しんでいました。ここにおいて、②の体制への反発は皆無であり、むしろ烏丸は体制とズブズブの関係にすすんで入っていったという点で、勇者と根本的に思想を異にしていると言えるでしょう。

ラストでは、還暦近くなった烏丸が、茉莉と再会します。高嶋友奈が勇者となったことは間違っていたと断じる茉莉に対し、烏丸は友奈の犠牲のおかげで多くの人の命が救われたことを理由に、高嶋が勇者となったことは最善の選択だったと語ります。これこそ、TVシリーズで勇者部が否定してきた「少数の犠牲で多数を救う」という体制の論理にほかなりません。

烏丸の内面も、ひなたに服従する状態も一生変わらないことを予感させて、物語は幕を閉じます。烏丸が何かを変えようとして戦うことは一切ないでしょう。

 

「戦わない者」たちの物語

以上見てきたように、勇者史外典は、自己の内面を変革し、体制へ反発する「勇者」とは異なる物語となりました。この点について、朱白あおい氏もあとがきで以下のように述べています。

勇者であるシリーズと言えば、勇者たちの熱く感動的なバトルが醍醐味だろうと考える方が多いと思いますが、本作は「勇者でない者たちの戦わない物語」をコンセプトとしました。(中略)私は『乃木若葉は勇者である』『楠芽吹は勇者である』という全に咲くを執筆し、戦う者たちの話を書くことに燃え尽きていました。

「これ以上戦う者たちの話を書いても私には前二作の劣化版しか書けません」と泣き言を訴え、私から企画を提案させていただき、連載が開始されました。

氏がいう「戦わない」とは、本記事で見てきたように、単に物理的に戦わないということではなく、①自己の内面②体制、の2つと戦わない、ということを示唆しているように思います。

そして、「前二作の劣化版しか書けません」というのは、謙遜抜きにそのとおりなのでしょう。「戦う者」たちの物語として、「結城友奈」「乃木若葉」「楠芽吹」はあまりに秀逸でした。

このような中で、「戦わない者たち」の話を見事な筆致で描き上げ、勇者であるシリーズの世界観を掘り下げた氏の手腕は賞賛に値します。シリーズファンとして、私は心から惜しみのない拍手を贈りたいと思います。しかしその拍手は、野球にたとえて言うならば若手のころは剛速球で真っ向勝負して三振の山を築いていたのに、ベテランとなって剛速球を失う代わりに緩急をつけたピッチングで丁寧に四隅をつき凡打の山を築いている投手に贈るような拍手です。

すでに多くのファンが指摘しているように、「勇者史外典」の書き下ろし番外編に登場する「横手すず」という名前は、勇者の章で登場した石碑に刻まれている名前であり、ここからも「勇者であるシリーズ」は続いていくことが予感されます。しかし、それはもはや「戦う者」たちの物語ではないのでしょう。

勇者であるシリーズの世界が広がる喜びと同時に、戦う者たちの物語が見られないことに対する一抹の寂しさを感じつつ、筆をおきます。拙文をお読みくださった方、ありがとうございました。