月見草アニメ!

ブログ名は「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」という野村克也氏の名言からつけました。月見草のように、目立たないながらも良さがあるアニメやゲームについて、語ることを目指します。

ワンダーエッグ・プライオリティの主題歌はなぜ巣立ちの歌なのか~ワンエグ特別編考察~

アニメ「ワンダーエッグ・プライオリティ」の特別編が放送されました。

 

結末が見えないところで終わった最終話から3か月、ついに結末が……?と期待してみたところで、あの最後。見ていて、

「いや、そこで終わるな」

とつい声に出して言ってしまいました。

 

何とも結末のない、一見すると中途半端なところで終わったように見えます。しかし、このように最後の最後まではっきりと描かないアニメこそ、考察のしがいがあるというもの。賛否は分かれるでしょうが、私はこのアニメのことを考えれば考えるほど、中途半端なところで最終回が終わった駄作であるとは思えないのです。特別編がどのような意味を持つのか、私なりの考察をまとめてみます。

それにはまず、特別編の前に本編が持つ意味を考えておく必要があります。

 

本編考察~彼女たちは何と戦っているのか~

そもそもアイたちは何と戦っているのでしょうか。

アイたちが戦うべきものは、「死の誘惑」「タナトス」「あどけない悲しみ」と表現されていますが、作中にはこの「死の誘惑」について、いくつかヒントになる場面やセリフがあります。

第5回でねいるが助けた葵という少女は、「今が一番きれいなの。若さって何物にも代えられない」「なぜ一番美しいときに死なないの?」と語ります。

また、第12回で沢木先生も、「大人の愛は汚い」「君たちもいずれそうなってしまう。だから大人になる前に死んだほうがいい」と言っています。

これらのセリフが「死の誘惑」を象徴しています。つまり、無垢な少女性を保存したいという欲求こそが「死の誘惑」です。

エッグ界の少女たちはみな無垢な少女性を持っていますが、これに対してエッグ界のワンダーキラーは汚い大人ばかりです。少女たちは、不条理な現実や汚い大人に対抗できず、「死の誘惑」に取り込まれてしまったのでしょう。

なお、アカと裏アカの会話で、「男は目的脳、女は感情脳」であるため、エッグ世界に「男はいない」ということが明かされます。これも、無垢な少女性を表していると言えるでしょう。

 

では、「死の誘惑」と戦うアイたちはいったい何なのでしょうか。

作中では、「エロスの戦士」と表現されます。「死の誘惑」と対になる存在が「エロスの戦士」です。したがって、「死の誘惑」のように無垢な少女性を保存することはできません。彼女たちは成長し、大人になっていく運命にあります。

大人になるとは、「自己の嫌いな部分を肯定すること」であると読み取れます。第2回で、ねいるがアイに対して、アイは「嫌いな自分を変えたくて」エッグを割るのだと指摘する部分がありますが、これはアイ、リカ、桃恵いずれにも当てはまります。

アイは沢木に恋心を抱いていることを肯定することで、コンプレックスであったオッドアイもさらけ出し、学校へ行くことが出来ました。

リカは第7回で、「私は弱い。だけどそれがまんま私」と、弱い自分を受け入れることができました。

男子のように見られることがコンプレックスであった桃恵は、アイから女子として見られたことを経てアイたちと友達になり、男子の心を持つ少女であるかおるから「素敵な女の子」として見られたことで、自己の容姿を肯定できたと思われます。

AIであったねいるはおいておくとしても、ほかの3人はみな、自己の嫌いな部分を肯定することが出来ました。逆に、エッグ界にいる自殺した少女たちは、自己の嫌いな部分を肯定することができずに、「死の誘惑」に負けて自殺したとも取れます。ワンダーエッグ・プライオリティとは、自己の嫌いな部分を肯定することで、汚い大人に対抗し、死の誘惑を拒否する話であると言えるでしょう。

 

しかし、「嫌いな部分を肯定する」ということは、「死の誘惑」の性質である「無垢な少女性を保存する」ということと両立しません。「嫌いな部分を肯定する」ということは大人になってからできるようになることであり、「死の誘惑」サイドからすれば「汚い」ということになるでしょう。

アイ、リカ、桃恵の3人は、クリア時に「死の恐怖」を知ることで、「大人になってしまった」わけです。それを見せつけられるのが特別編です。

 

特別編考察~ワンダーエッグ・プライオリティの主題歌はなぜ巣立ちの歌なのか~

特別編では、アイ、リカ、桃恵の3人がカラオケに集まります。エッグを割りに行くかという話になったとき、まず桃恵は「傷つきたくない」という理由で拒みます。これに対してリカは「臆病者」と言っていますが、これらのシーンはまず桃恵が「大人になってしまった」ことを表現しています。傷つくことを恐れずに目的を果たそうとするのが少女なら、傷つきたくないという理由で逃げるのは大人です。不条理な現実を知り、「ミテミヌフリ」をするのが大人です。

カラオケのシーンの帰りに桃恵がひとり電車を先に降りますが、まさにこのシーンこそ、桃恵が「大人になった」ことを象徴しています。彼女は「青春」という列車から降りたのです。列車を見送る桃恵の表情が、幸福感のある笑みであると同時に、どこか寂しさを感じさせるのが何とも印象深いです。まるで、もはや戻ってこない青春の1ページを振り返って、それを懐かしむ大人の表情そのものです。

桃恵に対して、まだ大人になり切れていないアイとリカはねいるの家に行きますが、そこで「ねいるはAIだった」という衝撃の事実を知ります。これに「あたしは降りる」とリカが真っ先に言いますが、これこそがリカも「大人になった」ことを表現しています。

そして、アイもねいるからかかってきた電話に出ず、スマホを窓の外へと投げてしまいました。「生き返らせたかった人は努力の結果生き返ったが、元通りの人格ではなかった」「友達だと思っていたねいるが実はAIだった」という圧倒的な不条理な現実から逃げてしまう……これこそが、アイが大人になった瞬間です。

さて、ここにおいて、なぜこのアニメのOPが「巣立ちの歌」であったのかがよくわかります。少女たちは無垢な少女性を保存するという選択肢を選ばず、大人になったのです。もう青春時代は戻ってきません。「エロスの戦士」たりえることもありません。

いざさらば……。特別編で、「みんなとは自然消滅」し、「あんなにどきどきしたした季節を忘れるわけない」と述懐するアイは、まさに青春時代を懐かしむ大人の姿にほかなりません。

 

そう思っていた矢先、アイは通りがかった少女の会話からねいるのことを思い出し、エッグを割りに行きます。「アイ、復活」……。それは、青春時代への回帰です。不条理な現実に傷つかないことよりも、傷ついてもいいから不条理と戦うことにプライオリティを置いていれば、青春へ戻ることができる……。ワンダーエッグ・プライオリティ特別編は、そんな話だったのではないでしょうか。最後のアイの行動は、不条理な現実をたくさん知った我々大人に、一縷の希望を与えてくれているように私には思えました。不条理な現実から逃げ出しても、また戻ってくるアイは、まさに「負けざる戦士」であると言えるでしょう。

私の考察はここまでですが、これでもまだ考察が足りないところがたくさんあるように感じます。一見すると結末を書かずに終わったように見えても、考えてみれば余韻がある方が考察の余地があり、作品について思いを巡らせたくなるものです。考察してもまだ足りないところがあるという点で、ワンダーエッグ・プライオリティは間違いなくいいアニメでした。私のような浅い考察でも、このアニメについていろいろと考察している人の中で、枯れ木も山の賑わいになればいいなと思います。ここまでお読みくださりありがとうございました。