月見草アニメ!

ブログ名は「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」という野村克也氏の名言からつけました。月見草のように、目立たないながらも良さがあるアニメやゲームについて、語ることを目指します。

ブルリフファンよ、ブルリフの本質が何なのかを考える時が来たわよ~

BLUE REFLECTION(以下ブルリフと呼称)シリーズの最新作となるスマートフォン/PCゲーム、「BLUE REFLECTION SUN/燦」(以下ブルリフSと呼称)が今冬リリースされます。シリーズ初の男性主人公を登場させるなど、ブルリフSの情報が明らかになりつつあります(2022年11月11日現在)が、現状ではこれらの情報について、ブルリフシリーズファンの間でも賛否両論があり、議論が紛糾しているように見えます。

BLUE REFLECTION SUN/燦 (bluereflection-sun.com)

このような状況で、本稿では私の考えをまとめておきます。私の気持ちをひとことで言えば、期待4割、不安6割といったところです。感情的な次元では不安な気持ちですが、一方で、理性的な次元では期待するところがあるのです。

順を追って私の考えを述べていきます。

 

 

前提①売れるものが正義である

ファミ通11月24日号には、ブルリフSのメインスタッフである岸田メル氏、ガストブランドの土屋暁氏、細井順三氏の3名が、ブルリフSについて語ったインタビューが掲載されています。

 

 

本稿ではこのインタビューからうかがえる3名の考えをベースに、論を進めていきます。もちろん、引用するのはインタビューの一部に過ぎないため、3氏の考えについてはファミ通を読んでから判断いただきたいと思います。

 

岸田氏は初代ブルリフについて、「いっそ、とことんニッチにしたほうがいい」と考えて作ったと語り、細井氏も以下のように述べています。

 

我々がこれまで『BR』(引用者注:ブルリフのことである)で目指してきた方向は、ちょっとニッチな部分があったのかなと思っています。ですので、「『BR』シリーズに興味はあるけど、触るのはちょっと敷居が高いな……」と感じていた方も正直いらっしゃったと思いますが、そういった方たちに「基本プレイ無料だからこそ、岸田さんが作った世界観に触れていただきたい」というのが正直な想いです。

 

明言はされていませんが、ここからうかがえるのは、プレーヤーの分身となる男性主人公を出すのは、今までの「ニッチな」――具体的には、女の子しか出てこないという――方向では売れないから、より間口を広げて幅広いユーザーにブルリフに入ってきてもらいたい、つまりより売れる作品を作りたいという製作陣の意図です。

このことに対して、「自分が見たいのはそれじゃない」と思うことは自由です。ですが、そう思うことを理由に製作陣を批判するのは少し違うように思います。ドライなようですが、そもそもゲームも商売ですから、売れるものを作らないと意味がありません。

今までのブルリフシリーズがそこまで売れていたかと言うと、決してそうではないというのが正直なところではないかと思います。製作陣の言葉を借りれば「ニッチ」なものなので、私を含め一部のファンには支持されていましたが、その支持は広がりに欠けるところがありました。

このような現状を踏まえると、製作陣がより売れるものを作ろうと今回の設定を考えたことはある程度理解できます(もちろん、それを踏まえても感情的な反発を覚える部分もあり、後述します)。これに対して「自分が見たいものはそれじゃない」と言っても、「だってあなたの見たいものだと売れないでしょう」と言われては、何も反論することはできないと言えるでしょう。

ブルリフSについての是非を議論する一つ目の前提として、つい「自分が好きかどうか」だけで判断してしまいがちですが、以上のように「売れるものこそ正義である」という視点を忘れずに持っておきたいと私は考えます。本稿では、「売れるかどうか」という視点に従って、ブルリフSについて考えていきます。

 

 

前提②本質を変更したうえでのマス向けシフトは失敗する

以上述べてきたところからすると、今回の変更を全面的に指示しているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。なぜならもうひとつの前提として、「本質を変更したうえでのマス向けシフトは売れない」という点があるからです。

前提として売れるものこそが正義である。それは正しいです。しかし、売れることだけ考えて、「その作品でやりたいことが何なのか」という本質が変わってしまうと、結局その作品は売れないのではないかと私は思うのです。作品が売れることを目指すなら、「何をやったら売れるか」を考えるのではなく、「これをやりたいのだが、どうすればそれが多くの人に伝わるか」を考えるべきです。

この前提について、ゲーム作品の知識が乏しい私が十分な論拠を示すことは難しいかもしれませんが、感覚的にわかるところではないでしょうか。

 

企業にたとえて言うならば、「理念を忘れた利益の追求は失敗する」と言えるかもしれません。そしてそのことは歴史が証明しています。

たとえば、本稿を読んでいるみなさんはソニーを知っていますね。ソニーはもともと、1946年の創業時、東京通信工業株式会社時代は、真空管の電圧計を製作する会社でした。しかし、それからテープレコーダー、トランジスタラジオ、さらにテレビ、ビデオカセットプレーヤー……と様々な商品分野に進出してきました。*1

しかし、これらソニーがやってきたことは単に利益を追求して大衆に売れるものを見境なく作ってきたのではありません。ソニーを創業した井深大は、創業時に「設立趣意書」を作っており、そこには以下のような「会社創立の目的」と「経営方針」が記されています。*2

 

会社創立の目的

一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設

一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動……

(以下長いので引用者略)

 

経営方針

一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず

一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する……

(以下長いので引用者略)

 

 

ソニーが次々に新製品の分野に進出して成功してきたのは、この「設立趣意書」に記された理念という本質を変えず、その本質がどうやったら達成されるのかを追求してきた結果であると言えます。決していたずらに利益を求めてきたのではありません。そのような姿勢は経営方針の一つ目で明確に否定されています。

ゲーム作品においても、このように本質を変更せずにいかにその本質が達成されるかを考えるべきであり、売れるために本質を変更するのはうまくいかないと言えるのではないでしょうか。

 

企業の例が不適切だとすれば、もう少しイメージしやすいところで、アニメーション監督の新海誠氏を思い浮かべると分かりやすいと思います。

新海監督は「君の名は。」で売れる以前、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、恋する相手とつながれない寂しさ、喪失感を特徴とする作品を出し、マス受けすることはなかったものの、一部のファンから熱狂的に指示されました。その彼が「秒速5センチメートル」の次に出したのが、「星を追う子ども」です。

星を追う子ども」はジブリ作品の作風をなぞった、それまでの作品と作風の異なるマス向けのジャンルのものでした。よりマスに向けた、売れることを目指した作品だったはずですが、興行的には失敗しました。それまでの新海作品の本質が変わってしまったからであると言えるでしょう。

これに対して、ヒットした「君の名は。」は、従来の新海作品の特徴である恋する相手とつながれない寂しさや喪失感を持っていると同時に、ストーリーのエンタメ性が増し、見事に大衆受けする形式になったものでした。*3

このように、売れるために本質を変えてマス向けにシフトしてもうまくいかず、「本質を変えないまま、いかにその本質が広く受け入れられるようにするか」を考えることが、エンタメ作品においては非常に重要なのです。

 

 

PVを見て感情的な次元で感じること

以上で述べてきたように、エンタメ作品については「売れることが正義である」と同時に、「本質を変えたマス向けシフトをしても売れない」という前提があると私は考えます。この2つの前提にしたがって、今回のブルリフSについても考えるべきです。この2つを踏まえずにブルリフSの変更点を批判することは、ソニーに対して真空管の電圧計を作り続けろと言うようなものであり、新海誠に対してRADWIMPSを起用するなと言うようなものです(?)。そこで本稿では、この2つの前提に基づいて、現時点で開示されたブルリフSの情報について吟味していきます。

冒頭で私は期待4割、不安6割と述べました。感情的な次元では、不安が大きく占めているのです。なぜなら、PVを見ると、第二項で述べた「本質を変えたうえでのマス向けシフト」をブルリフ製作陣がやろうとしているように感じてしまうからです。製作陣がより売れる作品を作りたいと意図していることは第一項で確認した通りです。しかし、それは本質が受け入れられるようにすることを考えてのことではなく、本質を変更することを考えてのことなのではないかという印象を、感情的な次元では受けてしまうのです(もっとも、本稿で一番主張したいことはこの点ではありません。理性的な次元では違い、後述します)。私が不安を感じる点は、以下の二点です。

 

まず第一に、これまでのブルリフシリーズは、初代、澪、帝ともに女の子同士の関係性、いわゆる「百合」要素がウエイトを占める作品でした。これらの作品の流れに反して、男性主人公を登場させるということは、本質の変更というふうに直感的には映ります。

男性主人公が出るというだけではありません。前述したファミ通の記事を見ると、ゲームのプレイ画面が載っており、キャラクターにプレゼントを渡して好感度を上げるというように見て取れる画面があります。そんなギャルゲーみたいな不純で不潔なことを、私はブルリフのような綺麗な世界観を本質とする作品でやって欲しくありません。確かに今までのシリーズで初代や帝でも女の子同士のデートで好感度を上げるイベントはありましたが、それはたとえば古墳を一緒に見に行ったり(?)、学校開発で築いた施設で心の交流をしたりと、もっと清純で綺麗なものであったはずです。

 

第二に、この主人公がプレーヤーの分身と位置付けられていることです。

先に述べたファミ通のインタビューで、岸田氏は以下のように述べています。

今回はアバターとなる男性主人公に感情移入してもらって、もう彼は自分自身だと思って、女の子たちがたくさんいる世界で女の子たちといっしょに冒険してほしいという想いがあります。

この岸田氏が述べた点について、私は直感的に強い拒否感を覚えました。この拒否感がどこから来るのかを考えたときに、件のインタビューにある以下の細井氏の言葉がヒントになりました。

もちろん、これまでのファンの皆さんが「なんでこんな綺麗な世界に男がいるんだ」と思われる気持ちはわかります。

ここを読んだときに、そうじゃないんだよ、と言いたくなりました。男がいることが問題なのではありません。自分の分身がいることが問題なのです。私は、この醜く汚い自分とは無縁の、少女たちの綺麗な世界を外から眺めていたいのです。なぜ醜く汚い存在である自分の分身が、その綺麗な世界に入っていかなくてはいけないのでしょうか。……自分で書いていて思いましたが、気持ち悪いですね。すみません。

こういった私の想いは、PVを見てさらに強まりました。ブルリフSのPV第二弾では、初代ブルリフの主人公である白井日菜子が、画面越しに「お願い――。あなたの力を貸してほしい あなたなら――きっと」と、私たちの分身である主人公に訴えかけるという構成になっています。


www.youtube.com

私はこれを見て、吐き気がしました。反吐が出そうです。日菜子には、自分とは無関係の天上の人であってほしかった。その日菜子が我々と同じ地に堕ちてきたのがこのPVです。白井日菜子という、敬虔で神聖な存在が、何者かの手によって汚されたように感じました。……やっぱり気持ち悪いですね、すみません。

 

ともあれ、今まで開示された情報で私が感じる不安は、このように単なる主人公の性差によるものではありません。このようなブルリフの綺麗な作風が壊れてしまうのではないかという懸念こそが、私の不安を生み出しているのです。

そして繰り返しになりますが、「私が嫌いだから」という理由でブルリフSを批判しているのではありません。これらの変更が、「本質を変えるマス向けシフトである」、すなわち「売れない、失敗する」のではないかと危惧しているからこそ、こうして不安の声を上げているのです。

 

 

理性の次元で、ブルリフの本質を考えてみる

このように感情的な次元では今回の情報に大いに反発と不安を感じているところであり、まだプレイもしないうちからブルリフSの変更を批判してきました。ですが、これらはあくまで感情的な次元の話です。理性の次元で、もう一歩立ち止まって考えてみたいことがあります。それは、「そもそもブルリフの本質とは何か」ということです。ここまでブルリフSの変更が「本質を変えるマス向けシフト」ではないかと考えてきましたが、冷静に立ち止まってみれば、「ブルリフの本質が何か」を考えることなくして、「本質を変えるマス向けシフト」なのかどうかを考えることはできません。

前述のインタビューを読むと、岸田氏はこうも言っています。

僕らが1作目でやりたかったことは、“女の子だけの世界”というわけではなかったんです。

岸田氏の言を信じるならば、「女の子だけの世界」はブルリフの「本質」ではないと言えます。

また、岸田氏は以下のようにツイートしています。

では、氏の言う「根底の大事にしている部分」、すなわちブルリフの本質とは何なのでしょうか。このブルリフの本質とは何かを明らかにすることは、本稿の目的ではありません。それを示すには、もっと膨大な考察が必要となるでしょう。本稿で主張したいのは、この「ブルリフの本質とは何か」を明確にしてから、ブルリフSについて意見を述べるべきであるということです。「本質を変更したマス向けシフト」ではなく、「本質がより広く受け入れられるための変更」であるならば、それは売れるものであり、売れるものが正義であるからです。

ブルリフの本質は百合である? それもいいでしょう。それならば、男性主人公を入れたことは批判すべき対象になります。ブルリフの本質は岸田メルのデザインした美少女がリフレクター(イローデッド)に変身した姿である? それもいいでしょう。それならば、今回のブルリフSは何ら批判すべきことではありません。

上記のように、自分が好きか嫌いかという低い次元の話ではなく、ブルリフの本質は何なのかという理性的な視点で、私たちブルリフシリーズのファンはブルリフSについて議論すべきです。第三項で私が気持ち悪く書いてきたような好き嫌いの感情の次元で話している以上、そこには何も生まれません。

 

さて、ブルリフの本質が何なのかを明らかにすることは本稿の目的ではないと述べましたが、それでも全くその点について触れないわけにはいかないので、まとまらないながらも私が現時点でおぼろげながら思い浮かべているブルリフシリーズの本質について書いておきたいと思います。具体的な考察はまたの機会に譲りますが、私が思い浮かべるブルリフシリーズの本質は以下の二点です。

第一に、少女たちの繊細な心理描写です。初代ブルリフで日菜子が自らの真実を知ったとき、そして最後に選択を迫られたときの感情の機微。ブルリフRで平原陽桜莉が過酷な運命に傷つき、苦しみもがきながらも前に進んで行く姿。ブルリフTで星崎愛央が自らの平凡さに悩みながらも、リーダーとしての自分を自覚していく過程。それらの繊細な心理描写こそ、私をブルリフシリーズに惹きつける大きな魅力であると言えます。

第二に、悲しみや苦しみ、痛みに寄り添う作風です。初代ブルリフで、日菜子は膝の怪我によるバレエダンサーとしての挫折を経験したからこそ、フラグメントを暴走させる少女たちの感情に寄り添うことができました。ブルリフRで、陽桜莉は悲しい出来事を経験しつつも、苦しむ少女たちの想いを守りたいと願い、その想いに寄り添いました。ブルリフTで、星崎愛央は自らのあり方に悩みつつも、仲間である少女たちの苦悩や葛藤に寄り添い、少女たちと助け合う関係を築きました。これらの優しくて繊細なブルリフの世界観に、私はどれだけ救われたかわかりません。

これら二点が引き継がれているのであれば、たとえどれほど感情的に反発を覚える変更がなされたとしても、ブルリフSも立派なブルリフシリーズと言えるのではないか。私はそう考えています。これが、冒頭に述べた「理性的な次元で感じる、期待4割」です。

 

もっとも、以上で述べたのは私が感じるブルリフの本質にすぎません。ブルリフシリーズのファン、人それぞれ思い描くブルリフの本質は異なるでしょう。だからこそ、その本質が何なのか、ブルリフSについて議論を交わす前に、一人ひとりが突き詰めて考えるべきなのです。真にブルリフシリーズの永続と発展を願うのならば、短絡的な思考に陥ることなく、ブルリフの本質について熟考すべきです。

 

今こそ、私はこう宣言したいのです。

ブルリフファンよ、ブルリフの本質が何なのかを考える時が来たわよ~。

 

末筆ながら、ブルリフSがブルリフの本質を引き継いだものであり、ブルリフSをきっかけにブルリフシリーズがさらなる発展を遂げることを願ってやみません。

 

ここまで拙文をお読みくださった方、ありがとうございました。